#5 海外事業で岩崎久彌が残した足跡とは?
設立当時の東山農事株式会社
|
三菱第三代社長岩崎久彌は、社長を退いたあと海外でも様々な農牧関連の事業展開を行っていた。すでに小岩井農場を経営していた久彌が、なぜ海外にも目を向けたのか、各地でどのような事業を有し展開していたのか。そこから見えてくる久彌の人柄や現地のエピソード、当時の海外事業の一端について、東山農事取締役総務部長の戸田敦さんの話を伺いながら紐解いていこう。
三菱合資会社社長を大正5(1916)年に51歳で退任した岩崎久彌は、3年後の大正8(1919)年に農牧関連の事業会社である東山農事株式会社を設立した。当時は朝鮮東山農場(朝鮮支店)、北海道拓北農場、新潟米作事業(新潟支店)を直営し、小岩井農場や末廣農場は岩崎家の委託を受けて経営していた。
「東山」は久彌の父であり三菱創業者である岩崎彌太郎の雅号から取られた。
「彌太郎は海運業を進めるなか、朝鮮との貿易や開発を志しましたが、結局果たせませんでした。その思いを久彌さんは受け継いで、明治40(1907)年に朝鮮で米作事業を開始しました。東山農事ができる10年以上前の話になります」(戸田さん)
この東山農事のもとで、久彌は海外で農牧事業を展開していくことになる。
ブラジル南東部サンパウロ州カンピナスの東山農場放牧場
|
朝鮮東山農場の設立翌年には、久彌が設立した三菱製紙所(設立時は合資会社神戸製紙所)により、台湾で竹林経営が始められた。東山農事設立から8年後の昭和2(1927)年、ブラジルに東山農場を開設。前回お話を伺った小岩井農牧の辰巳俊之社長は、ブラジルの東山農場で働いたことがあると本シリーズ#4で書いた。それがこの農場だ。昭和4(1929)年にはカーザ東山を設立。ブラジル東山農場(農事部門)を起点に、商事部門や銀行など多角的な事業を展開する。同時期に事業会社として東山栽培株式会社も設立しインドネシア・スマトラ島にオイルパーム事業を行う「アジャム園」を開設した。さらにマレー半島でゴム栽培を行うなど、事業を展開した。
海外事業では現地住民の福祉に貢献できる事業を選んだ
スマトラのオイルパーム事業の仕事場
|
久彌は、様々な束縛のある狭い国内には飽き足らず、広大な土地を求めて海外に事業を展開したと考えられる。その背景には、大正期から昭和初期にかけて国内各地で労働争議や小作争議が発生していたこともあったようだ。
「実際、新潟事業は米の小作事業でしたので、争議の影響で昭和10(1935)年までかかって土地の売却を完了し、新潟支店を閉鎖しています」(戸田さん)
興味深いのは、久彌は海外への事業展開にあたって、現地の事情を考慮し、現地の人々との利害に反しない事業=現地住民の福祉に少しでも貢献できる事業を選んでいる点だ。
「例えば、スマトラのオイルパーム事業は現地では新規事業で、地元でも利用価値の高い植物油の生産を行いました。この事業のため大規模な工場をつくり、オイルパームを運ぶための線路もつくりました。しかし、この地域の水は塩分を含み工場用水には適さなかったため、遠くにある川から灌漑用の水を引きました。この灌漑用水により、新たに地元の広大な土地が開墾可能となったという事です」(戸田さん)
また、ブラジルでは、コーヒーの害虫対策のため、唯一の方法であるウガンダ蜂の飼養が必要だったが非常に難しく、一般農家にはなかなか普及しなかった。しかし、久彌が設立した東山農場は飼養法を確立。一般農家を始め、地元で害虫対策を広めることになった。
久彌による農牧事業には公共的精神が感じられ、地域貢献という側面もあり、海外で上げた利益は日本に戻すことなく、現地に再投資しています」(戸田さん)
ここで海外での久彌の実際の活動を探りたいが、海外の事業地に足を運んだのは朝鮮東山農場のみで、それ以外に明確な足跡は見られない。ただ、久彌は合資会社社長時代同様、各地の責任者に全幅の信頼を置き、事業を任せたという。
『岩崎久彌伝』には「すべてを他人の功に帰して恬然たるばかりか、それについての記録なども全く残してゐない」と書かれている。
久彌はブラジルに派遣される社員に対し、「現地に骨を埋める覚悟で行ってきなさい」と声をかけたことが、数少ない言葉として残されている。また、傘下の各農場には、福利厚生のための施設としてテニスコートやビリヤード場、従業員クラブなどの施設や親睦行事が充実し、交流の場が用意されていた。小岩井農場同様、ここでも従業員を大事にしていた姿勢が見える。
福利厚生施設でビリヤードを楽しむ従業員
|
最後まで社員の面倒を見てくれた立派な“ご主人”だった
東山農事には社長という肩書きはなく、久彌は主人と呼ばれ、その下に専務、常務がいた。会社にはほぼ毎日出社し、農業関係の洋書や外国から取り寄せた雑誌を読むのを楽しみにしていたという。仕事帰りには時々、洋書を求め日本橋の丸善に立ち寄ったようだ。
久彌は海外事業に人を派遣する際、事前に小岩井農場での研修を課している。それは大規模農場の運営の要点を学び、シミュレーションをするためだったのではないかと戸田さんは語る。
「そのため、小岩井農場は久彌の海外事業展開の母体になったとも考えられます。人事異動もワールドワイドで、小岩井の次に朝鮮半島に行って、ブラジル、台湾に赴いた方もいらっしゃいます。まさに商社並みですね(笑)」
東山農事取締役の戸田総務部長
|
終戦後、久彌は職を失った多くの社員を救うため、復興期の木材需要に合わせ、自身の所有していた森林の伐採と材木販売の仕事を与えたという。
社員への熱い思いと愛情を感じ取れる久彌の行動である。
(参考文献)
「岩崎久彌傳」岩崎久彌傳編纂委員会、「小岩井農場七十年史」小岩井農牧
