カントリージェントルマン 岩崎久彌に学ぶ

#6 祖父、久彌は謙虚で質素、それに正義感の強い人だった

三菱第三代社長岩崎久彌は、親族から見てどんな人だったのか。今回ご登場いただくのは、久彌を祖父に持ち、孫の立場からその人柄に触れてきた槇原喜久子さん。幼い頃から湯島の岩崎家茅町本邸(現在の都立旧岩崎邸庭園)に通い、晩年まで彼の姿を見つめてきた。喜久子さんからすれば、久彌は「叱るときは本気で怒っている様に見えてとても怖かった」という。これまでのシリーズで取材した久彌像とはどう違うのだろうか。孫の目から見た、久彌の思い出を振り返っていただこう。

久彌の孫にあたる槇原喜久子さん。厳格な久彌のエピソードについて伺った

槇原喜久子さんは、岩崎久彌の孫にあたり、久彌の次男で三菱製紙会長などを務めた岩崎隆彌の三女として生まれた。ちなみに母方の祖父は「三井の大番頭」といわれ、三井合名筆頭常務理事や日本銀行総裁、大蔵大臣も務めた池田成彬だった。幼稚園から小学校2年生までは戦前の女子学習院に通った。

母方の家はリベラルな家庭で、家に行っても気軽に祖父といろんな遊びをしたという。一方、久彌の家に行くときは玄関から緊張し、部屋に入ると、座敷の向こうで祖父と祖母が長いテーブルの前に座っていて、敷居の手前から父と母が挨拶をしていた。子どもたちは、もっと後ろにいて、長女と次女、兄、喜久子さん、四女は挨拶というより、丁寧にお辞儀をしていたらしい。
「祖父の家は厳格な家でした。使用人の方は大勢いましたが、子どもは直接、使用人に頼んではいけないとの決まりがありました。私がちょっとしたことを頼んだら、『そんなことは自分でしなさい!』とすごく叱られた記憶があります」

末廣農場では朝食がすむと農場の見回りに出かけた

喜久子さんが住む家は駒込にあり、久彌は湯島の茅町本邸に住んでいた。本邸には毎週1回、土日のどちらかに親戚一同が集まり、久彌らと食事をともにしていた。
「湯島の洋館のダイニングルームでの食事では、大人は大人同士、子どもは子ども同士でする決まりでした。ある時おかずがまずいと言って残したら、祖父にひどく叱られました」
久彌が好きだった食べ物は、高知から届けられた漬物や、新潟から送られた佃煮。基本的には質素なものを好んだ。
「当時の祖父は小彌太に社長を譲るかどうかの頃。小彌太は美術品が好きで、いずれは自分の好みの美術館をつくりたいと願っていました。祖父も骨董を持っていましたが、親しい人の中に経済的に行き詰まった人がいてそれを見かねて買い取った、あるいは、頼まれて買ったものだったようです。ただ、書物は好きでした」

小岩井農場の牛舎

夏には小岩井農場にもよく通った。久彌は馬を飼ったり、牛を飼ったり。さまざまなことに詳しかった。
「散歩に行って『おじいちゃま、これ何? ねこじゃらし?』と聞くと『ねこじゃらしという名の草はない!』と叱られたこともあります(笑)。別荘の庭には小さい木がたくさん植えてあって、朝露がキラキラして、とてもきれいだったことを覚えています」
久彌は農場で働く人たちにも非常に丁寧に接し、そこに子どもが割り込んだりすると、強く叱られたという。
「祖父は朝早くから動物を見に行きますから、家族全員、朝が早い。それを邪魔しないように厳しく言われましたね。農場の移動にはトロという荷駄馬が引く乗物があって、線路で走っていました。それに乗るのは楽しみでしたが、子どもは歩かなければならないと歩かされました(笑)」

戦後、久彌が千葉県富里市の末廣農場で引退生活を送っていたときは、家族が当番で週1回は出向いて食事をともにしていた。朝食が終わると、久彌は長靴を履いて農場の見回りに出かけ、動物を見に行くことを習慣にしていた。
「農場から帰ってくると、お昼まで読書していましたが、大抵は英語の本や分厚い図鑑で、動物の系図や種類などが載っていました。本を読んでいるときの祖父は怖くて近寄り難く、夢中になって読んでいました。孫と遊ぶような雰囲気はまったくなかったですね」
ただ、久彌から動植物の話はずいぶん聞いたらしい。
「蝶が飛んでいると、あれはアオスジアゲハ、トンボがいると、それは赤トンボやシオカラトンボ、セミがいれば、アブラゼミやヒグラシというように、名前をきっちり言わないと機嫌が悪かったです(笑)。ムクドリとヒヨドリの区別がつかないと言ったら、『昨日言っただろ!』と呆れられたりしました」

旧岩崎家末廣別邸(千葉県富里市)。ここで熱心に農場や動物の見回りをした

祖父はよいことばかりをした人だったという気がしている

戦後は財閥解体によって、久彌の住む茅町本邸や喜久子さんの家も接収され、預金封鎖にあったと言う。そのため、姉2人は卒業したものの、喜久子さんと四女は女子学習院をやめることになった。そこで編入試験を受け、東京教育大学附属中高(現・筑波大学附属中高)に通うようになる。高校時代には文部省の試験に合格して、ニューヨークに行き、当時米国の新聞社が主催した世界の高校生を集めたフォーラムに日本代表として参加している。
その後、喜久子さんは1957年に槇原稔さんと結婚。ロンドンやシアトル、ワシントンなど海外勤務を長く経験した槇原さんは、のち三菱商事社長・会長のほか、久彌が設立した東洋文庫の理事長も務めた。喜久子さんは海外に長く住んでいたこともあり、家族の中でも一族のことが話題にのぼることはほとんどなかったという。子どものときも、世間には実家が財閥であることを伏せていた。そんな時代だった。

喜久子さんは今振り返り、祖父はどんな人間だったと思うのだろうか。
「謙虚で質素な人で、おいしいものを食べるとか、きれいなものを着るとか、そうしたことに一切興味がない人でした。祖父はしょっちゅう同じ服を着ていたことを覚えています。使用人がいたことはいましたが、本当に身の回りの世話をする人だけでした。今、(久彌が岩崎家から東京都へ寄附した)六義園へ行きますと、入ったところに祖父の名前が書いてあります。それを見て改めて祖父は立派なことをしたのだと思いました」

喜久子さんはまた、祖父は正義感が強かった人でもあり、自分の思い出の中では今も、よいことばかりをした人だったという気がしていると話す。
「父(岩崎隆彌)や伯父とは全然スケールの違う人でした。母方の祖父(池田成彬)については母から、どういう人だったかを教えられましたが、父方からはこれまで家のことを教えられたことはありません。祖父(久彌)と池田(成彬)は同じ時期にアメリカに留学していたようです。子どもたちの結婚の話が出てからは意気投合し、2人とも訥弁で欲がなかった。何の遠慮もなく仲良かったそうです。会うととても楽しそうにしていたと聞いています」

久彌は妻の寧子も大切にしていた。喜久子さんは2人が言い争う姿も見たことがない。
「祖母が病室で寝たきりになっているとき、孫たちが相撲をとって遊んでいたら『ばあさんが死にかけているのに、相撲をとるとは何事だ!』と怒られたことがあります。その言葉は今でもよく覚えています」。
子どもの頃は理解できませんでしたが、と前置きをしつつ、「今思えば厳格でありながら謙虚で質素。若い時の留学中にみがいた国際的な物の見方にも長けていて、もっともっと話を聞かせてもらいたかったと思います」と喜久子さんは話してくれた。