#7 久彌が愛した末廣農場はどのように設立されたのか
|
三菱第三代社長の岩崎久彌が小岩井農場と並んで愛した、末廣農場。晩年はこの農場で過ごし、鶏や豚の飼育、野菜を始めとした農業に従事した。末廣農場とはどのような場所だったのか。そこで久彌はどんな足跡を残したのか。今回からは末廣農場編として3回にわたり末廣農場と久彌について探っていく。初回は末廣農場の設立期を見ていこう。
千葉県富里市の「旧岩崎久彌末廣農場別邸公園」は、JRまたは京成成田駅からタクシーで15分ほどの場所にある。周囲は生活道路に囲まれており、広大な敷地を柵越しに覗くと大きな木々が生い茂り、その先には近代和風建築の建物や、よく手入れされた庭園を窺うことができる。庭園エリアは2021年4月から公開され、久彌が晩年を過ごした屋敷は、国登録有形文化財「旧岩崎家末廣別邸」として2025年4月から一般公開されている。
久彌の農場の名を受け継ぐ富里市の観光・交流拠点施設「末廣農場」は、庭園エリアに次いで2022年6月にオープン。かつての末廣農場で育てられ、今も生産されている希少な豚肉「ダイヤモンドポーク」が味わえる食事処やお土産も購入できる市民の日常的な交流の場として親しまれている。
富里市が手を入れるまで森や竹林のように見えたという末廣別邸は、地元の人からは三菱別荘と呼ばれていた。周囲には祖父母が末廣農場に勤め、農場がなくなるときに土地を分配され、農家を始めた世帯も多い。
ただ、彼ら以外、市内で農場のことを知る者はほとんどいなかった。周囲を歩いても「この森は何だろう」と思われるような存在だったという。末廣農場の歴史を調査している富里市商工観光課主査の林田利之さんはこう語る。
「まさに歴史に埋もれた存在でしたが、三菱地所さんから末廣別邸を寄附していただいたことで、富里市の歴史のピースがはまりました。この場所が、下総御料牧場時代から末廣農場を経て、成田空港建設に伴う移住者の住宅地となっていく歴史がつながった。それまではここだけがすっぽり抜けていたのです。しかも末廣農場の歴史をいろいろ調べていくと、千葉県の近代農業の発祥と言っても過言ではない事業が行われていたことがわかるのです」
取材に応じて頂いた富里市商工観光課主査の林田利之さん
|
叔父・彌之助からも大きな影響を受けた久彌
もともと末廣農場があった土地は、明治の元勲、大久保利通が明治8(1875)年、日本の殖産興業を発展させようと国内で初めて開いた牧羊場だった。もしうまくいっていれば、富岡製糸場のような世界遺産になっていたかもしれない。しかし、海外から輸入した羊たちは風土にまったく合わず病気になり、わずか5年ほどで事業は失敗に終わった。
その後、下総御料牧場になっていくが、この土地だけが外れた場所にあり、国としても管理費がかさむうえ利用価値がないと明治15(1882)年、払い下げに出す。ただ、約340haの広大な土地を一括で購入できる買い手はなかなか見つからず、最終的に明治20(1887)年、三菱第二代社長の岩崎彌之助(初代社長・彌太郎の弟)が購入することになった
当時、彌之助は様々な場所で土地を購入しており、明治20~26年にかけては新潟で大規模な米作りを始めたり、岡山で干拓地を造成して綿花栽培を始めたりしている。明治24(1891)年には小岩井農場を井上勝らと開設しており、農牧事業に立て続けに投資した。なぜ彌之助は農牧事業に投資したのだろうか。林田さんはこう指摘する。
「食に目を付けたところは彌之助さんならではです。久彌さんだけでなく、彌之助さんも安芸での貧しかったころの生活が大きく影響しているのでしょう。若い頃、苦労されていますから、その分、農業に目を向けられた。久彌さんにしても彌之助さんから受けた影響が大きかったのではないでしょうか。生みの親が彌太郎さん、育ての親が彌之助さんと言っても過言ではないですし、祖母である美和さんの存在も大きく、それだけ親兄弟の絆が強かったのではないかと感じています」
末廣農場開場記念祭(所蔵:橘家)
最前列向かって左端が橘常喜農場長、左から3番目が経営補佐の赤星陸治氏(小岩井農場の農場長・三菱地所初代社長)、その右隣が岩崎正彌氏 |
約111万本の植林を行い、農場として土地を整備
末廣農場を購入した明治20年以降、おそらく彌之助の指示を受け、久彌が末廣農場を岩崎家の農場として整備することになった。
「それまでは牧羊場として使われていたので、草原が広がっていたのですが、土地は肥えていなかった。そこでまず森をつくり始め、約111万本のスギやヒノキ、マツを植えたのです。その間は三菱の植林事業所として材木もここから出荷していたそうです」(林田さん)
その当時、木材の需要は非常に高く、炭鉱開発にも欠かせないものだった。崩落を防ぐための支柱として使うということで、小岩井農場の植林事業も木材需要を支える側面があったようだ。
植林地として材木を切り出し出荷すること約20年。土地も肥えてきたことで明治44(1911)年、久彌の弟である岩崎正彌がアメリカ留学から戻ったことを機に養鶏と養豚を主要事業とした農場に生まれ変わることになる。大正元年11月に先進的な設備を備えた「末廣農場」が誕生した。この時点で、久彌はまだ末廣農場には主体的に関わっていない。久彌が本格的に末廣農場に携わるのは社長退任後になる。次回は久彌が何を目的に農場に関わったのか、久彌の理想を追求する姿を見ていく。
