みにきて! みつびし

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高知・安芸 前編:訪れるたび新たな出会いと気づきがある、「志」の地

安芸観光情報センター ~彌太郎こころざし社中~

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こんにちは! 事務局のカラットです。これまで30か所以上の三菱ゆかりの地やグループ各社の公開施設などを訪問してきた「みにきて!みつびし」ですが、大事な何かが足りない……そう思われていた方も多いはず。そう、三菱を創業した岩崎彌太郎の故郷をまだ訪問していなかったのです。今回、満を持して岩崎彌太郎が生まれたまち、高知県安芸(あき)市へと行ってまいりました。三菱の源流の地を前・後編に分けてたっぷりご紹介します!

「たっすいがは、いかん!」(土佐弁で「気力がとぼしい、張り合いのないのはだめだ!」の意)と、書かれたキリンラガービールのエリア限定の“のぼり” があちらこちらで南国の風に揺れる高知県。まるで彌太郎社長が飛ばす檄のようなコピーに身を引き締めつつ、高知駅から土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線に約1時間10分ほど乗ると、安芸に到着します。ごめん・なはり線の車窓からは白い砂浜と青い海を臨むことができ、彌太郎はこの海を見て育ったのだな、とこれから訪れる彌太郎の足跡を見る前からわくわくしてきました!

安芸市は、南には土佐湾、北は四国山脈から徳島県に接した、人口約16,200人(令和2年国勢調査による)の町です。市内を安芸川・伊尾木川が土佐湾へと流れ、豊かな自然に恵まれて、農産物ではゆずやナス、海産物ではちりめんじゃこなどが収穫・生産されています。

1835年、彌太郎が誕生した当時の岩崎家は「地下浪人(じげろうにん)」といわれる立場でした。地主であるかたわら農民と同じように農業をしていたとのことですから、彌太郎少年もきっと、この地の育てた恵みあふれる野菜を食べて大きくなったことでしょう。

彌太郎の志を、今を生きる人々に伝える「こころざし社中」

黒と白を基調とした凛々しい外装。特徴的なデザインは船を模したもので、写真右側の高い壁が帆を表している。

さて、岩崎彌太郎のルーツを辿る旅、まず訪れたのは安芸観光情報センターです。ここは「彌太郎こころざし社中」とも名付けられ、高知県東部地域の観光情報発信基地として、そして彌太郎の「志」を伝える施設として2011年3月にオープンしました。2020年3月の全面リニューアルに際しては、三菱創業150周年記念事業委員会がハード・ソフトの両面で協力し、彌太郎の功績を郷土で伝承する活動を支援しています。

涼やかな青をベースとした館内では、井ノ口村で生まれた彌太郎がさまざまな出会いや巡り合わせを経て、三菱を創業して国家を支える大事業を為すに至るまでの生涯をわかりやすいパネル展示で紹介しています。

大海をイメージした色調の館内。展示パネルでは、彌太郎の人物や生涯をわかりやすく紹介。母・美和による岩崎家家訓を、彌太郎は心の大きな支えとした。
「力行近乎仁」(りっこうじんにちかし)と書かれた書は彌太郎が十代の頃のもの。「真面目に努めることは、仁に近い。仁とは人を思いやり、いつくしむこと」。人の信頼において最も大切な観念で、彌太郎の生き方そのものを表した言葉。

彌太郎は漢詩に造詣が深く、「東山」という号で詩や書を残していますが、そのきっかけとなったのが「漆喰」という言葉だったのだそうです。「漆」を「喰う」と書いて「しっくい」と読むのだと知った彌太郎少年はまず漢字に興味を持ちました。それを見た彌太郎の母・美和は、息子に漢学を学ぶことを勧めました。美和は彌太郎にとって母であると同時に人生の師であったとも言える人物で、彌太郎が心の支えとした岩崎家の家訓を遺しています。

一、人は天の道にそむかないこと。
二、子に苦労をかけないこと。
三、他人の中傷で心を動かさないこと。
四、一家を大切に守ること。
五、無病の時に油断しないこと。
六、貧しい時のことを忘れないこと。
七、常に忍耐の心を失わないこと。

こころざし社中にも掲示されているこの七つの訓は、子どもから大人まで誰が読んでも必ずひとつは自分にも思い当たるんですよと教えていただき、確かに……!と私も心に留めました。皆さんなら、どれを特に自らの戒めとして志すでしょうか? 

タッチパネル「コンパス」では安芸市や彌太郎とゆかりの深い人物・施設などのつながりを調べることができる。
岩崎彌太郎が登場した2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で使用された衣装や小道具のレプリカも展示されている。

パネル展示のほか、幅13.3mの大スクリーンを備えたVRシアターでは高画質のCGアニメーションによる「彌太郎ものがたり」が上映されています。三菱創業者・初代社長としての岩崎彌太郎のイメージが強かったのですが、改めてその人生をこうして辿ると、少年の日に抱いた志と母の教えを胸に、たくさんの苦労や挫折にくじけることなく邁進した一人の人物が見えてきたように感じました。

「彌太郎こころざし社中」は、訪れた人も新しい何かを見つけ、「志す」きっかけに出会える場所でもありました。

「社会のために」……三菱の精神が宿る「岩崎開き」

岩崎家家訓のうち、「一家を大切に守ること」は、彌太郎にとって非常に重要な戒めのひとつでした。ここでいう「一家」は岩崎家のみならず、貧しくとも共に働き生活を営んでいた、故郷の人々みんな、引いてはその人々が生きる社会をも指していると捉えることもできます。

彌太郎は20代後半で藩命により長崎に派遣されますが、金策のため無断で土佐に帰国し罷免され、井ノ口村に戻ります。官職を失って農村での日々に逆戻りした彌太郎でしたが、この頃、近くを流れていた安芸川の両岸にはまだ開拓されていない土地がありました。彌太郎は許可を得て度々の洪水であらされていた東岸に堤を築き、新田や綿作地を開墾しました。堤によりその後村は水害を免れ、この開拓地は「岩崎開き」と呼ばれて現在も堤の痕跡が残っています。「社会のために」は三菱グループの基本理念として受け継がれる精神ですが、「岩崎開き」はその起源ともいえるかもしれませんね。

安芸川のほとりに現在も一部が残る石積みの堤。彌太郎を中心に一家総出で築いたもので、その後幾度も村を水害から守った。
開拓された土地は、その後の区画整理の為はっきりとは確認できないが、稲穂がたれている様子は当時と変わらないはず。彌太郎もこの景色の中で農作業に勤しんだことだろう。

「岩崎開き」を開拓したころというのは、彌太郎は仕事のうえでは手痛い失敗こそしたものの、結婚をし、長男・久彌が誕生した時期でもありました。家族を得て一層に「一家を大切に守る」ことの意味をかみしめ、家族が生きる社会をより良いものにしたい、そのためにできることをしたい、と強く思ったのではないでしょうか。

伊尾木洞はこの周辺が海だった頃、波の浸食により出来た。シダ群落すべてが国の天然記念物に指定されている。

もうひとつ、安芸にちなんだ「社会のために」の精神を表す岩崎家のエピソードがあります。安芸市には伊尾木洞(いおきどう)という、多くの種類のシダが生い茂る非常に珍しい洞窟があり、高知県出身で日本の植物分類学の父・牧野富太郎が何度も足を運んだ場所として知られています。熱心に研究を続けていた牧野博士でしたが、そのために莫大な借金を背負ってしまいます。そんな牧野博士に支援の手を差し伸べたのが、彌太郎の弟でやはり母・美和の教えを受けた彌之助でした。

彌太郎の息子・久彌は私有していた六義園や清澄庭園などを東京市に寄付し、彌之助の息子・小彌太はこの「社会のために」の精神を含んだ訓示を三菱の経営理念「三綱領」としてまとめました。今に受け継がれる三菱の精神は、この安芸から始まっているのだなと改めて感じました。

訪問の際はご当地グルメもお忘れなく。高知県産の鰹や、安芸のナスを使った各種料理、そしてたっぷりのちりめんじゃこと薬味を乗せ、ゆずのたれをかけた「釜あげちりめん丼」はイチオシの安芸名物!



さあ、ここまで彌太郎の志や家族、故郷への思いを見てきました。次回はいよいよ、彌太郎と彌之助、そして久彌が誕生した生家、そして彌太郎とゆかりの深い星神社をご紹介します。

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