三菱広報委員会より

2026.09.24

マンみつ探訪記 第4回
1980年代、社員の6割が家庭に持ち帰っていた!
「マンみつ」の軌跡を振り返る

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1965(昭和40)年11月の創刊以来、三菱グループの歩みとともに各社の取り組みを伝えてきた月刊誌「マンスリーみつびし」。長年「マンみつ」の愛称で親しまれ、毎週木曜日配信のWEBメディアとなった現在も、その呼び名は世代を超えて定着している。

そのバックナンバーを紐解くと、時代背景を色濃く映す特集やコラムが数多く掲載されている。本コーナーでは、その軌跡を1970年代から2000年代にかけて振り返っていく。第4回は、1982年6月号に掲載された「なつかしい表紙、企画でつづる“みつびし”17年の歩み」と、1988年12月号に掲載された「マンスリー『みつびし』読者アンケート結果発表!」から、マンみつがどのように変化し、愛されてきたかを見てみよう。

200号を記念し、歴史をたどる企画を掲載

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1982年6月号をもって、マンスリーみつびしは創刊200号という節目を迎えた。これを記念して組まれたのが、「なつかしい表紙、企画でつづる“みつびし”17年の歩み」である。16年8カ月の間に幾度かのリニューアルを重ねてきたマンみつの歴史を、誌面写真とともに回顧する企画だ。このようなページが企画されたことからも、この頃にはすでにマンみつが三菱グループに定着し、親しまれていたことがうかがえる。

記事のなかでは、黎明期の様子が次のように綴られている。

「創刊号は表紙のないモノクロ活版刷り16頁、第2号からは8頁建てと、現在の本誌と比べるとささやかなものだった。発行部数もわずか2万部で、会員会社の各課単位に1部ずつ配布され、回覧方式で読まれていた」

大きな転換期となったのは、1969(昭和44)年10月号(48号)だ。記事はこう続ける。

「本誌がグループ社員全員配布になったのは、創刊から4年たった昭和44年10月号(48号)から。発行部数が一気に35万部となったうえ、本文が16頁にふえ、はじめてカラーの表紙もついて、本格的グループ機関誌の体裁をととのえた」

回覧方式から全員配布へ。2023年4月にはWEB版へ移行し、社員のみならず誰もが閲覧できるようになったが、この当時は「一人一冊」が、情報共有のあり方を変える大きなできごとだった。また、誌面の変化についても言及がある。

「定期的にカラーページがお目見えするようになったのは、昭和51年1月号(123号)から。カラー写真をふんだんに使った『三菱のある街』、グループ各社のカレンダー紹介その他の企画が本誌にいろどりを添えるようになった」

モノクロからカラー印刷へ、そして紙からWEBへ。時代の要請に応じたメディアの進化が、そこには刻まれている。

家庭への持ち帰りはいまひとつ? さらなる広がりを目指す編集部

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1988年12月号に掲載された「マンスリー『みつびし』読者アンケート結果発表!」では、アンケート用紙配布総数740枚のうち、回答があったグループ42社の社員493名の調査結果を、編集委員のコメントとともに紹介している。

まず、「『みつびし』をどのくらい読んでいますか?」という設問に対する回答。「興味や関心のある記事があれば読む」が67%、「だいたい隅々まで読んでいる」が25%、さらに「決まった記事を読んでいる」が3%。これらを合わせると、実に9割を超える社員が誌面に目を通していたことになる。「ほとんど読まない」はわずか5%に過ぎなかった。

この高い数字に対し、誌面では「読者層が広いだけにニーズの把握も困難。何らかの形で毎号目を通す人が9割以上という数字には、スタッフ一同ひと安心」とのコメントを添えている。

一方、「『みつびし』を自宅に持って帰りますか?」という質問に対し、「ときどき持って帰る(32%)」と「ほとんど毎号持って帰る(28%)」を合わせると、計60%の社員が持ち帰っていた。しかし、これに対して編集部は「家庭への持ち帰り率はいまひとつ?」との厳しい自己評価を下していた(「持って帰ることはない」は39%、無回答1%)。

記事は「皆様の声を生かし、これからも愛される誌面づくりを心がけたいと思います」と締めくくられている。そこから読み取れるのは、「社員本人だけでなく、その家族にも三菱を深く知ってほしい」という編集部の情熱である。

現代は、WEBやスマホでマンみつが読める時代だ。社員だけでなく、その家族、そして一人でも多くの方に三菱の姿を知っていただきたいという願いは、当時も今も変わらない。


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