三菱人物伝

雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.02 井ノ口村を忘れず

若き血をたぎらせていた岩崎彌太郎が、時いたらずと帰農して、安芸川の河原の開墾に明け暮れる雌伏の日々に、長男久彌が生まれた。土佐、井ノ口村。明治維新の3年前である。

岩崎家の家風に大きな影響を与えたのは彌太郎の母・美和である。町医者の娘だったが、呑んだくれで反骨の元郷士・岩崎彌次郎に嫁いだ。貧窮の中で彌太郎を産み、育て、人の道をしっかり教えた。美和の方針は彌太郎の嫁・喜勢を通じて、かわいい孫の久彌の教育に引き継がれた。

彌太郎は土佐藩に再び登用され、長崎で藩の武器購入などに携わったが、時代は激しく動き、やがて大政奉還、明治維新。舞台は大阪に移った。海運会社「三菱商会」を旗揚げした父のもとに家族が合流したのは、久彌8歳のときだった。高知から船で着き、西長堀の新居に行くと、まだ前の住人が荷物をまとめきれないでいた。父の会社の若い衆がてきぱきと荷物を運び込み、結果として弱者を追い出すようなかたちになった。この光景を久彌少年は心の痛みとして生涯忘れなかった。

翌年、彌太郎は東京に進出、家族も移ることになり、陸路東海道を行くことにした。川船や馬、人力車などを使いながらも基本は徒歩で、ようやく12日目に東京入りした。久彌は実によく歩いた。美和は「この孫はものになる」と思った。

久彌は親元を離れ、下宿した。後に三菱の幹部になった親戚の豊川良平らの指導のもとに福沢諭吉の慶應義塾に通った。3年後、彌太郎が開設した三菱商業学校に転じ、英語や簿記のほか世界史、経済、法律などを英文の教科書を使って学んだ。

ゴッドマザー美和の教え

このころ、日本の将来を担う多くの若者がアメリカやイギリスに留学した。久彌も、彌太郎の後に三菱を継いだ叔父・彌之助の指示で、1886(明治19)年、アメリカに渡った。一般の学生と同じようにフィラデルフィアの安下宿に入り、まずは英語を勉強、ペンシルヴァニア大学のウォートン・スクールに進んで主に財政学を学んだ。日本とは違う自由な学生生活を満喫した。

後に外交官になり駐日公使も務めたロバート・グリスコムとは特に交友を深め、卒業にあたって一緒に欧州を旅行した。大西洋航路では、当然のようにグリスコムは上等船室、久彌は船底の下等船室だった。旅も終わりに近づき、ぺテルブルグの毛皮店で久彌は日本へのお土産を求めた。明治の富豪の御曹司に餞別をくれた人は多かったのであろう。久彌が高価な毛皮を大量に発注するのを目にしたグリスコムは心底から仰天した。のちに述懐している。「カーネギーとロックフェラーを併せたような偉大な地位につく男とは、その時までこれっぽっちも思わなかった」

久彌はフィラデルフィアでは極めて普通の学生だったのだ。

岩崎家のゴッドマザー・美和が書き残した訓戒に、「富貴になりたりといえども貧しきときの心を失うべからず」との1行がある。原点を忘れるな。岩崎4代の心の底にある戒めである。久彌は彌之助の後を継ぎ成長期の一大企業集団を統率したが、若いころから決して奢らず、他者への配慮を忘れない経営者だった。

井ノ口村を忘れず。美和の教えを最も色濃く受け継いだのは3代目久彌だったと言える。

文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年6月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。