三菱人物伝

雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.03 事業の多角化と組織の近代化

IT(情報技術)をいかに駆使するかがその企業の今後を左右するといわれる今日だが、日本で初めての電話交換所が東京・麹町龍ノ口にできたのは、久彌が米国留学中の1890(明治23)年だった。このときの加入者がわずか155名でしかなかったのは、当時猛威をふるっていたコレラが電話線からも侵入すると噂されたせいかもしれない。

さて、明治24年、久彌は5年間のフィラデルフィアでの留学を終え帰国した。アメリカは、石炭、石油、鉄鋼などを中心に産業界が発展し、カーネギーやロックフェラー、モルガンといった大資本家が次々に誕生した時代だった。一方、日本も、帝国大学の創設、大日本帝国憲法の発布、第1回帝国議会の開会など、近代国家としての歩みを着実に進めていた。

明治26年には商法が整備され、三菱社も合資会社に改組することになった。これを機に久彌は彌之助からトップを引き継ぎ、28歳の若さで三菱合資会社の社長に就任した。

久彌が社長をつとめた明治から大正にかけての20余年は、日清・日露の戦争を間にはさんだ、日本の近代産業の勃興と発展の時期だった。久彌は幹部たちの意見に耳を傾け、彌之助によって進められた事業の多角化を、ひとつひとつ確実なものにしていった。収益の大半をあげた鉱業部門では筑豊や北海道の炭坑のほか各地の金属鉱山の買収を進め、大阪の製煉所も傘下に収めた。石炭や銅の生産は伸び、国内販売はもとより輸出攻勢がかけられた。成長部門の造船は、長崎造船所に巨費を投じて近代化を図り、神戸と下関にも造船所を建設した。丸の内にオフィス街を建設して不動産業にも乗り出し、銀行や商事部門も業績を伸張させた。また、化学工業の端緒になるコークス製造や朝鮮北部での製鉄を手がけ、麒麟麦酒などの起業にも参画した。

呼び名は「三菱紳士」

明治41年、久彌は事業の拡大と厳しい経営環境をにらんで、現場にコストマインドを徹底させるため、一定の資本枠を与えるなど各部への権限の移譲を断行した。銀行部、造船部、庶務部、鉱山部、営業部、炭坑部‥。最終的に合資会社は地所部を加え8部体制となった。これは今日にいう事業部制の走りで、「個々の事業はそれぞれの専門家に責任を持ってマネージさせる」という久彌の意志の表れである。彌太郎以来の「…会社に関する一切の事…すべて社長の特裁を仰ぐべし」(『三菱汽船会社規則』第一条)というワンマン・カンパニー的経営体質から近代的マネジメント・システムへの脱皮だった。これこそが岩崎4代による75年間の経営の「起承転結」の「転」の部分であり、「組織の三菱」への分岐点だったともいえる。

1916(大正5)年、第一次大戦の好景気の中で、久彌は信頼する従弟の小彌太に社長の座を譲った。それからは、相談にのることはあっても、経営に口をはさむことはなかった。

久彌は茅町本邸の日本家屋部分に住み、家族との生活を大切にした。生涯を通じて謹厳そのもので、妻の寧子は娘たちに「私の一番の幸せはお父様が家庭を清潔に保って下さったこと」とよく語ったという。近代人であり、教養人であり、「三菱紳士」の呼び名がぴったりの人だった。

文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年7月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。