三菱人物伝

雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.08 今は役目を終えた事業

今はもうないが、かつて久彌が情熱を注ぎ、その時代に役割を果たした事業をいくつか見てみよう。

日本最初の鉄道が開通し、洋服にぞうり、羽織はかまに靴といった文明開化ファッションで、陸蒸気見たさに新橋や横浜の停車場に人々が殺到したのは 1872(明治5)年。欧米視察から戻ってきた大久保利通は言った。「鉄道なしでわが国の繁栄はありえない」。鉄道建設は国造りの急務として、まず東海道線が国によって着工された。

海運の覇者三菱も各地の私営鉄道の建設に積極的に参画。明治14年、日本鉄道会社が彌之助ほかの出資で設立され、上野青森間全長730キロの鉄道建設が始まった。今の東北本線である。開通は同24年。東海道線の全通に遅れること2年だった。

荘田平五郎と末延道成を役員に送りこんだ山陽鉄道は明治34年に530キロが全通した。現在の鹿児島本線、長崎本線にあたる九州鉄道には、瓜生震が発起人総代として参加した。その他、筑豊鉄道、北越鉄道など数々の私営鉄道事業に出資し、三菱の幹部が久彌の名代で経営に参画した。

しかし、明治39年、多くの反対にもかかわらず鉄道国有法が施行された。民営鉄道は国に移管することとなり、三菱の鉄道事業も明治とともに終わった。

米作、発電、そして水道事業

話は変わって、明治20年、主食である米を会社組織で作る事業が試みられた。新潟県の広大な地域で、小作人数千人を擁した。種子や肥料や農具の貸し付けから農業教育まで、至れり尽くせりの組織対応で、明治後期には期待した成果をあげるところまできた。だが、全国の農村の荒廃は深刻で、あちこちで小作争議が勃発する。会社組織による米作は社会の流れと合わなくなり、やむなく撤退。大正末から、農地を順次小作人に譲っていった。

農牧にひときわ思い入れのある久彌は、海外での農場経営も手がけた。特に朝鮮半島においては明治40年に東山農場を開設、ピーク時には小作人3000人規模で朝鮮米の改良と増産に成果をあげた。これは模範農場とまでいわれ長く続いた。が、昭和20年、終戦とともに終わった。

今はやりのIPP(民間発電事業)ともいうべき事業にも久彌は情熱を注いだ。東京電燈会社への売電を目的として、猪苗代水力電気株式会社を明治44年に設立、全体設計を三菱神戸造船所電機工場のエンジニアが担当した。水車はスエーデン製、発電機はイギリス製、変電設備はアメリカ製。当初は発電規模があまりにも大きくて東京市だけでは消費しきれないとの議論もあった。久彌は「こういうことは将来を見越して、思いきってやるものです」と、エンジニアたちの計画を支持した。はたして、大正4年の送電開始の際は、東京も予想以上に発展し電力需要も激増していたため、ただちに増設工事に着手せざるをえなかった。

この成功に触発されて大送電事業が日本各地で勃興したが、猪苗代水力電気は大正12年東京電燈と合併することになり、三菱は電力事業から撤退したのだった。

このほか、彌太郎が始めた、東京の小石川、白山、本郷方面への水道事業も忘れてはならない。明治41年に久彌がすべてを東京市に寄付して、事業は終了した。

文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年12月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。