三菱人物伝

雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.07 茅町本邸物語

「無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石の間から、歯朶や杉菜が覗いていた」

茅町本邸をこう描写しているのは森鴎外の小説『雁』。1880(明治13)年の話である。無縁坂の北側には主人公であるお玉さんがひっそりと住んでいた。そのあたりは、今はマンションになっている。

茅町本邸はもとは高田藩榊原家の江戸屋敷。明治11年に彌太郎が元舞鶴藩知事の牧野弼成から購入した。のちに周辺の土地を買い増し、ピーク時には1万5000坪余りになった。東京大学や不忍池、湯島天神などが近く、便利で閑静な地域である。

久彌の代になってジョサイア・コンドルの設計により、2階建ての洋館が建てられた。明治29年である。久彌は結婚して駒込の六義園の屋敷にいたが、完成を待って移り住んだ。イギリス17世紀初頭のジャコビアン様式を基調にした傑作。久彌が留学していたペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージも取り入れた、木造の建物である。現在は、明治の代表的洋館建築として、古い煉瓦塀や広い芝生の庭園とともに国の重要文化財に指定されている。

洋館は接客もするパブリックスペース。東のはずれに久彌の書斎があった。天井の高い広い部屋で、中央に革のソファがあり、周囲の本箱には洋書がびっしり詰まっていた。ここにはよく三菱の幹部が来て打ち合わせをした。戦争の末期には小彌太社長と夜遅くまで話しこんだ。

隣接する日本家屋はもともと武家屋敷で部屋数は14。身内の会合や宴会は20畳と18畳をぶち抜いた広間で行われた。子どもたちはこの広間や芝生の庭で遊び、長じてはテニスコートや馬場で汗を流した。学齢期に達した男の子は、独立心を養うために敷地の外に住まわされ、書生の指導のもとで規律ある生活をした。

敗戦後、占領軍が接収

茅町本邸の近隣の古い人たちは今でも岩崎家のことを懐かしむ。久彌ファミリーがよく気を遣った名残である。湯島天神の祭りには庭を開放して神輿を迎え入れ、祝儀をはずんだ。関東大震災や東京空襲の際には率先して被災者を受け入れ炊き出しもした。焼夷弾が屋敷の近くに落ちたとき、孫の寛彌は80歳の久彌を防空壕に導こうとして怒鳴られた。
「臆病者め。みんなが火を消そうとしているときに、防空壕になんか入っていられるか!」

敗戦後、茅町本邸は占領軍に接収され、家族は日本家屋の一角に押しやられた。そして、昭和23年の秋には成田の末広農場に移ることになった。いよいよわが家を離れるとき、久彌は少年の日の、心の痛みを思い出した。明治6年に一家が高知から大阪に着いたとき、新居である屋敷に前の住人が荷物をまとめきれないでいた。結果として追い出す形になったことを久彌は忘れないでいた。今は自分が荷物をまとめて出て行く…。

「あのときと逆になったなぁ」

50年住んだこの屋敷は、その後、国の所有になった。敷地が切り売りされたり日本家屋の部分に司法研修所のビルが建てられたりしたが、幸い、洋館と大広間部分は当時のままに残った。現在は文化庁の管理下にあり修復中だが、金曜日には希望者に公開している。※1

  • ※1

    現在は都立庭園として年末年始を除き、午前9時から午後5時まで公開。

文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年11月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。