三菱人物伝

志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.09 持ち株会社と事業部門の独立

持ち株会社と事業部門の独立
創業者 岩崎彌太郎/三菱史料館所蔵

社長就任後の数年の間に、小彌太は後の三菱グループの基礎をつくる大仕事をした。1917(大正6)年秋から、三菱全体の組織改革に着手、会社の各事業部門を独立の株式会社に分離し、本社は持ち株会社として現業から離れて統括することとした。また順次株式を公開する方針を明示した。この株式公開は、初めはまだ縁故募集中心の制限つきではあったが、それまで岩崎家の手に資本を集中してきた経営方針からの大きな変革の第一歩だった。

小彌太は、方針転換をこう説明している。

「会社事業に他人の資本を加え会社の発展を計ることは実に三菱全体の経営方針の一変によるものである。従来の経営方針は、精神はつねに国家を対象とし社会を目的としていたとはいえ、形式上は集中主義で資本を一家に独占していた。今回これを改め、社会の進歩に応じ事業の発展に伴い、資本の一部を社会公衆に頒ち、出来れば従業者も参加させたい。

しかし事業活動の根本精神、すなわち事業経営の最終の目的は不変である。我々が個人としての物質的充実、団体としての物質的利益を目的とすることは人生の自然である。ただ我々の団体をして単なる利慾のための集団たらしめたくはないのである。

我々は労働力(Labour)、資本(Capital)、組織(Organization)の三要素を結合して生産に従事している。我々は「生産」という重要な任務を国家より委託されている。この『国家の為にする』ということが我々の事業経営の最終の目的なのである」

国益重視の経営目標

これは今日まで三菱グループ企業に受け継がれている共通の精神的基盤である。『国家』を『社会』と読み替えればよい。三井など江戸時代からの伝統を引き継いだ企業グループではもともと本社(本家)と銀行の役割が大きい。また戦前の三井物産のように流通部門のウエイトも高かった。収益を目的に見込みありそうな新事業、新技術などに融資し、また買収して事業を拡大する場合が少なくなかった。コングロマリット式に相互に関係のない企業を傘下に入れる方式である。欧米の企業によく見られる事業多角化のやり方だ。

これに対し、三菱の事業は明治維新の荒波の中で岩崎彌太郎の活動を通して生まれ、近代日本の建設を目指し、一つの根から技術と市場を順次形成して多角化をすすめた。それだけ人のつながりも強かった。また事業の中心がモノづくりだった。住友でも、江戸時代以来の別子銅山の事業から重化学工業部門が多角化したが、長らく本社直営だった。貸金業からスタートした安田は歴史的に金融中心の体質である。もちろん三井や住友も国益重視を経営目標に掲げていたが、三菱の場合が一番ハッキリしていた。

株式公開の程度も三井、住友にくらべて、三菱が一番高かった。財閥解体の際、住友本社や安田本社の株式は外部非公開だったが、三菱本社に対する岩崎家の持ち株比率はすでに50%を切っていた。

戦後の今では経営環境が違う。しかし企業の生まれ方、歴史的に受け継がれてきた共通の精神基盤は、無形の資産として、現在の難局に対する各社の姿勢に影響を及ぼしているのではなかろうか。(つづく)

文・宮川 隆泰

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年1月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。