三菱人物伝

志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.10 丸ビルの建設

丸の内オフィス街のシンボルだった旧・丸ビルは、小彌太の決断によって建てられたものだった。

明治維新後、新政府の軍隊は丸の内に駐屯していたが、政治情勢が安定したため、兵舎を青山に移転することになり、その財源として丸の内地区を払い下げた。入札により、岩崎彌之助が坪単価12円、合計128万円で落札した。三菱合資会社はここにビジネス・センターを建設した。イギリス式の赤煉瓦街『一丁ロンドン』である。第1号館(後の東9号館)の竣工が明治27年、その後、順次、赤煉瓦ビルが建てられていく。

しかし、大正3年に東京駅が開業し、丸の内の事務所スペースが不足してきたため、工期が早いアメリカ式鉄骨高層ビルを建てる構想が生まれた。旧・東京海上ビル、旧・郵船ビル、そして丸ビルの3館である。

しかし、丸ビルはリスクが大きかった。9階建てで、延べ床面積が1万8000坪と、これまでにない大きさ、しかも総工費は900万円、当時としては破天荒の金額だった。今の物価から換算すると、約230億円になる。しかも米国の建築会社と合弁で建てようというのだ。また、当時のビジネスの中心は日本橋・兜町で、テナントが集まるかどうかも全く未知数。エレベーター付きのオール洋式、下駄履きでは入れないようなビルに、下町から事務所が移ってくるとは思えなかった。しかも、時は大正9年で株価暴落、銀行破綻のガラ(瓦落)の真っ最中だった。

合資会社幹部からは慎重論がでた。しかし、地所部の赤星陸治、技師長の桜井小太郎らが建築推進を社内で訴え、社長に直訴した。小彌太は熟慮の末、大正9年 9月に丸ビル建築を決断した。この大英断は丸の内ビジネス・センターのその後の発展のきっかけになった。ただ、やかましいお偉方を飛び超えての提案だったので、赤星らは長らくお偉方に睨まれていたと伝えられている。

恋の丸ビルあの窓あたり

ニューヨークから乗り込んできた建築会社は、最新式の大型機械と、陽気な現場監督30人を送り込んで、東京駅前で盛大に杭打ちを始めた。ところが、工事が進んでいた大正11年4月26日、東京でマグニチュード6.8という強い地震が起こった。八分通り出来上がった丸ビルにも被害がでたため、やむなく工期を延長して補強工事をした。これが翌年9月の関東大震災の時に功を奏することになる。丸ビルは1923(大正12)年2月20日に完成した。

予想を超え、多くのテナントが集まった。会社事務所のほか、弁護士、会計士、建築家などの専門職業、医院、雑誌社や学会事務所なども店子になった。丸ビルには文化的でリベラルな雰囲気が生まれた。オフィスビルに商店街を作ったのも丸ビルが最初だった。レストラン、喫茶室などのほか、美容院も開店した。日本橋からは文具紙店を始めとする老舗も移ってきた。そこに、関東大震災が起こった。しかし丸ビルも赤煉瓦街の事務所ビルも無事だった。

こうして、丸ビルは新しい東京のシンボルになった。プラタナスの街路樹の下を洋装断髪の、今でいう OLたちが行き来する、昭和モダンの幕開けだった。この頃ヒットした『東京行進曲』には「恋の丸ビルあの窓あたり、泣いて文かく人もあろ」と歌われたのである。(つづく)

文・宮川 隆泰

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年2月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。