三菱人物伝

志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.11 関東大震災と500万円の義捐金

三菱史料館所蔵(青木常務)
三菱史料館所蔵(青木常務)

丸ビル開館直後の1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生した。

「東京を中心として大地震が発生し、鎌倉海岸の島は海中に陥没し、飛行機の大群は救援のために、東京の空に向かいつつあり」

三菱商事のベルリン出張所勤務の泰豊吉(はたとよきち・後の東宝社長)が読んだドイツ紙の東京電である。テレビもラジオもない時代のことだが、激震のニュースは全世界を驚かせた。

三菱合資会社は竣工直後の三菱本館と丸ビルに入っていた。本社の庶務部日誌によれば、「午前11時58分初震襲来、2~3分を隔てて前後3回の激震あり、室内器具硝子(ガラス)等破損す。館内騒然、人心恟恟(じんしんきょうきょう)たり」とある。

幸い、三菱関係の建物は倒壊しなかったが、本館の近くで建築中の内外ビルが一瞬のうちに倒壊、多数の作業員が生き埋めになった。そこへ、当時丸の内のお濠端にあった警視庁近辺から出火、火は四方へ広がった。東京市全面積の45%が焼失した。夜になり、火に追われた下町の住民が殺到、東京駅前、丸の内、皇居前広場は修羅場と化した。

三菱本社では地震発生直後、東京駅前の広場に、三菱倶楽部の道場の畳を持ちだして臨時救護所を作り、本社と丸ビル内の各医師が、けが人の応急手当てを始めた。飲み水を求める避難民には、丸ビル内の貯水を汲み出したが、底をついた。

翌2日、本社備蓄の米数十俵で炊き出しを始めたが罹災者が多すぎ、ついに丸ビル内の商店に群衆が乱入、食料品が略奪される事態となった。やむなく軍隊と警察が出動して群衆を整理し、各商店は缶詰、パン等を自発的に丸ビル正面広場で配った。

青木常務の独断決済

この時、小彌太は震源地に近い箱根に滞在していた。彼はてっきり箱根に大地震がきたと信じ、東京に大変事が起こったとは夢にも思っていなかった。そこへ本社からの急使2名が、寸断された道路を自転車で走り、緊急報告を届けてきた。

「東京方面の事情を知るに及び茫然自失せざるを得ざりし次第にこれ有り候」と小彌太は書いている。

9月5日、本社内に三菱合資会社非常組織が設置され、常務理事の青木菊雄を総取締として活動を開始した。青木はこの日、政府に社長・岩崎小彌太名義で 500万円の寄付を申し出た。これは丸ビル建設費(900万円)の半分以上にも当たり、今なら130億円もの大金である。青木の独断だった。慎重な彼には夜も眠られぬ決断だった。もっとも三井同族会も同日、同じ金額の寄付をした記録が残っているので、青木には何らかの連絡があったかもしれない。ともかく社長未決済の大金の支出なので、半月後、小彌太が出社してきた際に、青木は事後承認を求めた。

小彌太は「いいことをしてくれた」と青木の決断を賞賛し、ねぎらった。一方、大阪では9月4日、在京阪神三菱各社場所長会議が救援輸送を決定、日本郵船の船2隻を救援船として振り向け、食料・衣料・医薬品を満載、神戸造船所の医師、職員が乗り組み、出航した。鉱業佐渡金山の労働者、商事名古屋支店の職員も救護班を編成し、東京へ急行した。

震災は、第一次大戦後の不況から立ち直りつつあった日本経済に、強烈なボディ・ブローを見舞った。(つづく)

文・宮川 隆泰

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年4月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。