三菱人物伝

海に風あり、山に霧あり、 ―岩崎彌之助物語vol.07 炭坑、鉱山の開発

自動車も飛行機もなく、鉄道網もまだまだ先。海運は物流の根幹だった。その海運事業を切り離した三菱は、1886(明治19)年に三菱社を発足させ、経営の中心に鉱業を据えた。石炭や銅は殖産興業の原動力であり、外貨に変換しうる資源でもある。よって、鉱業は国家とともに歩む三菱の哲学にも合った。

明治14年に買収した高島炭坑は、すでに官営の三池炭坑とならぶ最優良炭坑になっていた。出炭量は全国の20パーセント。しかし、埋蔵量に限りがあり、このまま行くと7年あまりで掘り尽くすのではないかと危惧されていた。三菱は周辺の島の採掘権を次々に獲得し試掘を繰り返した。

高島は、現在は長崎から高速船で30分あまりのフィッシング・リゾートの島に生まれ変わっている。その沖合の端島は明治23年から80年あまり、三菱の経営で採炭を続けた。1974(昭和49)年に廃坑となり無人島になったが、「軍艦島」の別名通りの島影の中に、つわものどもの夢の跡といった感じで、高層社宅などの廃墟がそそり立つ。

ところで、明治21年に三池炭坑が払い下げられることになり競争入札が行われた。三池の石炭はもともと三井物産の扱いである。意地でも敗けられない三井が、僅差で競り勝った。

敗れた三菱はやむなく筑豊に目を転じる。22年から中小炭坑を次々に買収して行く。新入、鯰田、下山田、上山田、方城…。こうして三井の三池、三菱の筑豊という図式が出来た。

彌之助の鉱山獲得積極策

筑豊は、高島と違って埋蔵量が豊富だった。このため、三菱は設備投資を積極的に行った。とくに採炭、排水、選炭等の現場に最新の技術を導入した。

田川市立図書館に山本作兵衛という人のスケッチが保管されている。褌ひとつの亭主が腹ばいになってツルハシで石炭を掘り、腰巻きだけの女房が石炭籠を引きずり出している。山本は明治25年の生まれ。7歳から炭坑で働いたという。この絵が実際の記憶に基づくとすれば、機械化前の現場を表わしたものだろう。

金属鉱山について言えば、彌太郎の時代、明治6年にまず岡山県の吉岡鉱山を買収した。当初は採算に合うだけの産出を見なかった。14年に鑿岩機を導入してからは本格的採鉱が可能になり、各地の鉱山の再開発に技術的な見通しがついた。

彌之助は鉱山獲得に積極策をとり、10年代に7山、20年代には尾去沢を始め、猿渡、槙峰、面谷など40山を買い取った。坑道の開鑿、坑内運搬や精錬工程に新技術を導入し、生産は飛躍的に伸びた。

なお現在、秋田県の尾去沢には鉱山そのものを博物館として残した〈マインランド尾去沢〉がある。尾去沢鉱山の歴史は慶長時代までさかのぼるが、彌之助による買い取り以降、近代鉱山として90年に及ぶ稼動を続けた。地底の全長800キロに及ぶ坑道の、ほんの一部1・7キロが産業遺産として公開されている。薄暗い照明に導かれて歩いて行くと、採掘した鉱脈の跡の暗い底なしの空間に思わず身が引き締まる。

炭坑、鉱山事業は、大正7年に三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)として合資会社から独立した。また、当初売炭部と称した営業部も、同時期に三菱商事になった。両社は双子の兄弟ということになる。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年11月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。