三菱人物伝

海に風あり、山に霧あり、 ―岩崎彌之助物語vol.08 造船日本の船出 長崎造船所

ペリーの来航が1853(嘉永6)年。幕府はドロ縄ながら海防強化策をとり、安政元年、浦賀に造船所を建設、さらに長崎、横浜、横須賀に造った。また、水戸藩の石川島造船所、加賀藩の兵庫造船所も完成した。薩摩も肥前も……。やがて、明治維新。新政府はこれら造船所を接収する。しかし、いずれも和船の建造能力しかなく鉄船については修理がやっと。世界は鉄船の時代である。政府は今でいう民活の一環として、横須賀と呉の海軍工廠(こうしょう)を除いて順次民間に払い下げていく。

三菱についていえば、海運会社として所有する船舶のメンテナンスのために自前の修理工場を持つ必要があった。1875(明治8)年、上海の造船業者ボイド商会と共同で横浜に三菱製鉄所を設立、船舶の修繕にあたった。明治12年にはボイド商会の権利を買い取り三菱として自立した。17年、共同運輸とのビジネス戦争の最中に、三菱は長崎造船所の借り受けに成功した。「貸し下げ」が決まるまでに彌之助や川田小一郎の粘り強い根回しがあったことは論を俟(ま)たない。長崎造船所では鉄船の修繕をしながら、建造のための技術を習得していく。

大胆な近代化

明治18年、彌太郎が逝く。20年、三菱製の最初の鉄船・夕顔丸が竣工した。高島炭坑向け貨客船、206総トンだ。同じ年、念願の長崎造船所買収が実現する。以後、彌之助の強いリーダーシップのもとに長崎造船所に積極的な設備投資が行われ、大胆な近代化が図られていった。

大阪商船が新たに600トン級の鉄船を国内で6隻建造することになった。同社は沿岸航路に輸入鉄船を就航させていた。当然のこととして工部省直轄の兵庫造船所が独占受注する流れにあった。造船所の将来を決定づける一大プロジェクトである。三菱は彌之助の執念ともいうべき営業努力によって、6隻のうち3隻を受注した。

長崎造船所にとっては未曾有の建造である。本社と現場の息が合わなければならない。川田小一郎や荘田平五郎が本社で指揮を執り、長崎造船所支配人、山脇正勝が現場を取り仕切る。ドックや工場がさらに拡張された。大変な先行投資。3隻の鉄船は明治23年から24年にかけて完成した。長崎造船所にとってはやがて来る大型船の時代につなぐ記念すべき造船だった。この間に東京大学工科大学から採用された技術者が育ち、一方では、資金繰り、資材の買い付け、労務管理など、造船所経営の実践的ノウハウを修得した。

日本郵船は近海航路のみならず世界航路をめざしていた。が、その船舶を三菱で建造するにはさらに技術の蓄積を待たねばならなかった。彌之助が監務に退いてからになるが、明治28年、日本郵船は欧州航路用として6000トン級外航船6隻の建造を決める。すべて英国へ発注される予定だった。三菱はそのうち1隻を受注する。それまでの三菱の最大建造実績は1592総トン。船主にとっても造船所にとっても、無謀ともいうべき契約だった。しかし、長崎造船所はすでに近代技術による建造能力を身につけていた。1898(明治31)年、大変な苦労の末に常陸丸6172総トンが完成する。

造船王国日本の船出だった。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年12月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。