岩崎彌之助年表

岩崎彌之助

岩崎彌之助

創業者の後を継いだ16歳違いの弟は
九十九商会発足から15年、三菱の舵を 「海から陸へ 」大きく切った…

岩崎彌之助は嘉永4(1851)年、兄・彌太郎と16歳違いで岩崎家の次男に生まれました。初の男兄弟に喜んだ彌太郎から格別に可愛がられて育ち21歳のとき米国へ留学。日本人のいないコネチカット州の小さな全寮制の学校で17カ月間、英語を、ピューリタン精神を、そして民主主義の何たるかを学んだと言われています。明治6(1873)年、父・彌次郎の死によって22歳で帰国すると彌太郎を助けるため三菱商会に入社。高島炭坑買い取りでは経営の引き受けに消極的だった彌太郎に対し、彌之助が積極的な姿勢を取ることで契約成立。やがて三菱の主力事業へと成長しました。明治18(1885)年、彌太郎の死去とともに社長に就任した彌之助は、海運業を切り離して三菱社を発足。事業の柱を海から陸へと移し、諸事業を多角的に展開してゆきます。

明治23(1890)年には政府に請われて官有地だった丸の内と神田三崎町の土地、合わせて約10万7千坪を一括買取。丸の内に洋風建築の一大ビジネスセンターを誕生させます。明治27(1894)年、彌太郎の長男・久彌に社長を譲ると、自らは若き社長を支える相談役に就任。2年後、日銀総裁に就任した彌之助は金本位制を採用し日本の金融システムの確立に貢献しました。51歳で欧州、米国を9カ月にわたり歴訪。明治41(1908)年、57歳を迎える年に、三菱グループの骨格をつくった彌之助は永眠しました。

0歳1851年(嘉永4年)21歳1872年(明治5年)
21歳1872年(明治5年)22歳1873年(明治6年)
22歳1873年(明治6年)34歳1885年(明治18年)
34歳1885年(明治18年)42歳1893年(明治26年)
42歳1893年(明治26年)57歳1908年(明治41年)

誕生〜青年期

1851〜1872年

歴史上の出来事
  • ペリー、浦賀に来航(1853年)
  • 日米修好通商条約締結(1858年)
  • ダーウィン『種の起源』(1859年/イギリス)
  • 桜田門外の変(1860年)
  • アメリカ南北戦争(1861~1865年)
  • 徳川慶喜、十五代将軍に就任(1867年)
  • 大政奉還(1867年)
  • 坂本竜馬暗殺(1867年)
  • 王政復古の大号令(1868年)
  • 鳥羽・伏見の戦い 戊辰戦争始まる(1868~1869年)
  • トルストイ「戦争と平和」(1869年/ロシア)
  • 平民に苗字を許す(1870年)
  • 廃藩置県(1871年)
  • ドイツ帝国成立(1871年)

0歳1851年(嘉永4年)

土佐国安芸郡井ノ口村に生まれる

vol.01 彌太郎の遺志を継ぐ

三菱二代目社長岩崎彌之助。兄・彌太郎の亡きあと、智将・彌之助ならではのやり方で事業の多角化をはかり、今日の三菱グループの基礎を築いていく。

16歳1867年(慶応3年)

致道館に入学

18歳1869年(明治2年)

大阪に出て重野安繹の成達書院に学ぶ

19歳1870年(明治3年)

(九十九商会開設される)

海外留学

1872〜1873年

歴史上の出来事
  • 新橋―横浜間の鉄道開通(1872年)
  • 福沢諭吉「学問のすゝめ」(1872年)

21歳1872年(明治5年)

米国留学に出発

vol.02 土佐・大阪・ニューヨーク

幕末・維新の嵐の中、血気にはやることなく沈着に勉強に励んだ。16歳で土佐藩校致道館に入学、18歳のとき大阪に出て重野安繹の成達書院に学び、21歳でニューヨークに赴き1年半余で英語をマスター。

三菱副社長時代

1873〜1885年

歴史上の出来事
  • 徴兵令、地租改正(1873年)
  • 板垣退助が民撰議院設立建白書を政府に提出(1874年)
  • 台湾出兵(1874年)
  • 日本、ロシア帝国間で樺太・千島交換条約締結(1875年)
  • ベルが電話機を発明(1876年/アメリカ)
  • 西南戦争(1877年)
  • エジソンが蓄音機を発明(1877年/アメリカ)
  • エジソンが白熱電灯を発明(1879年/アメリカ)
  • 国会開設の勅諭(1881年)
  • 板垣退助らが自由党を結成(1881年)
  • 大隈重信らが立憲改進党を結成(1882年)

22歳1873年(明治6年)

父彌次郎没、米国留学から戻り三菱商会に入る、吉岡鉱山買収

23歳1874年(明治7年)

台湾出兵の軍事輸送を受命、大阪より東京に移る
後藤象二郎の長女早苗と結婚

24歳1875年(明治8年)

上海定期航路開設、第一船に搭乗し上海に赴く
長女繁子誕生、海運振興のため政府より命令書を受ける

26歳1877年(明治10年)

西南戦争軍事輸送受命、長崎に赴き指揮をとる

28歳1879年(明治12年)

長男小彌太誕生

29歳1880年(明治13年)

三菱為換店設立

30歳1881年(明治14年)

高島炭坑買収

vol.03 彌太郎を支えて 副社長時代

台湾出兵や西南戦争の軍事輸送やビジネス戦線で実務経験を積み、のちに三菱の多角化路線を展開する際の重要な布石となる高島炭坑買収では捨て身で彌太郎を説得。

33歳1884年(明治17年)

工部省長崎造船所借り受け

三菱社長時代

1885〜1893年

歴史上の出来事
  • 内閣制度発足、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任(1885年)
  • ベンツがガソリン自動車を発明(1886年/ドイツ)
  • 大日本帝国憲法(明治憲法)公布(1889年)
  • パリ博覧会開催、エッフェル塔が建設される(1889年/フランス)
  • 教育勅語発布(1890年)
  • 第1回帝国議会(1890年)

34歳1885年(明治18年)

彌太郎没、社長に就任
第百十九国立銀行経営引受、日本郵船設立

vol.04 日本郵船の誕生

2年9か月にも及んだ海運の覇権をかけた共同運輸との壮絶なビジネス戦争は、両社合併による巨大海運会社、日本郵船の誕生で終結。智将・彌之助の、名を捨て実を取る采配だった。

vol.06 金融事業の展開

三菱の銀行業は、海運会社の顧客サービスの荷為替金融を源流とする。三菱合資会社が第百十九国立銀行の業務を吸収し銀行部となり、のちに三菱銀行に発展する。日本初の損害保険会社・東京海上と生命保険会社・明治生命など、彌之助のもと、金融サービス事業が展開。

35歳1886年(明治19年年)

三菱社と改称

vol.05 事業の多角化と人材登用

吉岡鉱山、高島炭坑、第百十九国立銀行、千川水道、長崎造船所など、「岩崎家」として経営してきた事業を「三菱」のものとし、多角化へ。外国人幹部を多く登用。

36歳1887年(明治20年)

東京倉庫設立(現三菱倉庫)、長崎造船所払い下げ受ける
尾去沢・槙峰鉱山買収、新潟県稲作経営、児島湾干拓開墾着手

vol.08 造船日本の船出 長崎造船所

三菱製の最初の鉄船「夕顔丸」が竣工。彌之助の強いリーダーシップのもとに買収が実現した長崎造船所に積極的な設備投資が行われ、大胆な近代化が図られていった。

38歳1889年(明治22年)

新入・鯰田炭坑を買収、筑豊の炭坑経営に乗り出す

vol.07 炭坑、鉱山の開発

海運事業を切り離した三菱は、経営の中心に鉱業を据えた。中小炭坑や金属鉱山を次々に買収。積極的な設備投資を行い、新技術導入により、生産を飛躍的に伸ばした。

39歳1890年(明治23年)

丸の内・三崎町官有地取得、貴族院議員に勅選(翌年辞職)

vol.09 丸の内取得の決断

丸の内の兵営跡と三崎町の練兵場併せて約10万坪を128万円、相場の2倍から3倍の額で取得。近代日本を象徴するビジネス街の誕生を意味する決断だった。

40歳1891年(明治24年)

井上勝と岩手県に農場を開設(現小岩井農場)、家政改革に着手

三菱監務時代

1893〜1908年

歴史上の出来事
  • 日清戦争(1894年)
  • 三国干渉(1895年)
  • アテネ五輪(第1回オリンピック大会)開催(1896年)
  • 民法全編施行(1898年)
  • 戊戌の政変、西太后が実権掌握(1898年/中国)
  • 日英同盟締結(1902年)
  • ライト兄弟が動力飛行に成功(1903年/アメリカ)
  • 日露戦争(1904~1905年)
  • アインシュタインが特殊相対性理論を発表(1905年/ドイツ)
  • 鉄道国有法公布、施行(1906年)
  • 愛新覚羅溥儀が清の皇帝に即位(1908年/中国)

42歳1893年(明治26年)

三菱合資会社設立、社長を彌太郎長男の久彌に譲り監務となる

43歳1894年(明治27年)

丸の内に三菱第1号館竣工、三菱合資会社の本社を同館に移す

44歳1895年(明治28年)

三菱合資会社に銀行部を開設

45歳1896年(明治29年)

男爵に叙せられる、日本銀行総裁に就任

vol.10 合資会社設立と日銀総裁就任

三菱社を三菱合資会社に改組し、彌太郎の長男久彌を社長に据え、自らは「監務」となった。第4代日銀総裁に就任し、金本位制実施に向けて金融制度の画期的な転換を図るなど、活躍した。

47歳1898年(明治31年)

日本銀行総裁を退任

51歳1902年(明治35年)

欧米を旅行(3~10月)

vol.11 現役を退いて

リタイアし、気楽な立場になった彌之助は7か月余り洋行。美術品や和漢の古典籍収集品を収めた静嘉堂文庫は、のちに長男小彌太によって世田谷の現在地に移設される。

55歳1906年(明治39年)

長男小彌太三菱合資株式会社副社長に就任

vol.12 家族とともに(最終回)

英国留学から帰国した長男小彌太を三菱に入社させ、副社長として従兄の久彌社長の補佐役にした。次男俊彌は留学後、旭硝子(現・AGC)を創始。長女繁子は松方正義蔵相の次男と結婚、三男輝彌は農園を経営。彌之助は57歳で病死。世田谷の静嘉堂のかたわらにあるジョサイア・コンドル設計の廟に眠る。

56歳1907年(明治40年)

東京慈恵会顧問となる

57歳1908年(明治41年)

3月25日 没

(年齢は西暦の誕生日における満年齢)