三菱人物伝

海に風あり、山に霧あり、 ―岩崎彌之助物語vol.10 合資会社設立と日銀総裁就任

1885(明治18)年の社長就任以来、彌之助は尾去沢、槇峰等、各地の鉱山を手中にし、炭坑は高島から筑豊にも進出した。長崎造船所を取得して設備を拡張し、一方、金融分野にも事業展開、さらには丸の内オフィス街の建設に着手した。この結果、三菱は、三井、住友と肩を並べる一大産業資本に成長した。帝国憲法の発布、東海道本線の全通、第1回帝国議会の開催といった時期、明治中期のことである。

明治26年に商法が施行され、各種事業も個人経営から組織経営に脱皮する。彌太郎の長男久彌も5年余の米国留学から戻り、三菱社の副社長として経験を積んで2年になった。彌之助は三菱社を商法にのっとり三菱合資会社にした。久彌との折半出資。社長には久彌を据え、自らは「監務」という今で言えば会長ないし相談役の立場に退いた。彌之助42歳、久彌28歳のときである。

彌之助は、彌太郎の遺言を忠実に守り、自分はあくまでも久彌が育つまでのピンチヒッターと位置付けていた。だからこそ行われた早めの交替劇だった。

1894(明治27)年には丸の内最初の赤レンガのビル「三菱第一号館」に三菱合資会社が入居し、彌之助監務の部屋も設けられた。新社長の補佐役には豊川良平や荘田平五郎など信頼できる管事がいたが、トップとしては不慣れな久彌の相談相手になった。かたわら、財界の重鎮として大所高所から発言し活動する。

日銀総裁としての業績

そんな中でふってわいたのが、明治29年の第4代日銀総裁就任の話である。亡き彌太郎の盟友で、ずっと彌之助を支え続けた川田小一郎は、第3代日銀総裁に転じ采配を振るっていた。その川田が急死したとき、松方正義首相には川田並みの見識のある人物としては彌之助しか思い当たらなかった。川田は出勤せずに行員を自邸に呼びつけて指示するなど大物ぶりを発揮したが、彌之助は毎日律儀に定刻に出勤し、幹部の意見に耳を傾けながらことをすすめたので行員の信頼は篤かった。

彌之助の日銀総裁としての業績はわが国の近代経済史に燦として輝く。総裁就任4か月、明治30年3月わが国は金本位制採用を決定したが、正貨準備の重要性が増すことを考慮して日銀は外国為替専門銀行である横浜正金銀行(後の東京銀行、現東京三菱銀行)との協調体制を確立した。また、金本位制実施期日の10 月までに、金融制度の画期的な転換を図り、株式担保貸出制度の改正・個人取引の開始などを実施、市中銀行のオーバーローンの是正・預金銀行への体質改善という、今日では当たり前の体制を確立したのだった。

明治31年10月、彌之助は公定歩合をめぐって時の隈板内閣の蔵相松田正久と衝突、度重なる大蔵省の干渉に、「これでは日銀総裁などいらぬではないか」と辞表を叩きつけた。ただし、遺恨伝説になってもまずいとの配慮から病気静養を理由にした。名総裁がわずか2年で辞任したことを、日銀関係者は痛恨の極みとした。

後任には山本達雄が内部抜擢された。彼はもともと三菱の人材で川田が日銀総裁の時に移籍した。今日までに日銀の総裁は28代26名を数えるが、うち6名が民間出身。元三菱銀行頭取の宇佐美洵も第21代日銀総裁を務めている。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年2月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。