三菱人物伝

海に風あり、山に霧あり、 ―岩崎彌之助物語vol.09 丸の内取得の決断

つい5年前までは週末や夜間はひっそりとしていた丸の内オフィス街だが、今や仲通りにブティックやレストランが軒を並べ、銀座につながる繁華街として、暗くなっても賑わう街に変貌しつつある。

その丸の内仲通りに並行する、東京三菱銀行の本店と三菱商事の本社※1の間の通りは何というか。丸の内に勤めている人でもまず答えられないだろう。なぜなら、その名は地図から消えてしまったからだ。実は大名小路といった。このあたり一帯は諸大名の上屋敷だったからである。

大名屋敷の多くは明治維新後、宮城警護のための兵営になり、練兵場も出来て、丸の内はさながら軍の町になった。しかし、富国強兵の国策のもと、首都の陸軍も、内乱よりも外戦対応を一義とするようになり、より大きな敷地のある赤坂や麻布へ移っていった。その結果、丸の内はさびれてしまった。

1889(明治22)年、東京市は都市計画のマスタープランを作成した。それによると丸の内は将来広い道路を通して市街化することになっていた。一方、陸軍省は麻布に煉瓦造りの近代的な兵営を建てようとしていた。師団司令部や歩兵連隊のためである。その見積もりざっと150万円。陸軍予算の1割以上にあたる。折から、自由党の板垣退助や改進党の大隈重信は軍事費の大幅削減を叫んでいた。特別予算の確保はとても無理だ。そこで浮上したのが丸の内の陸軍用地の売却による資金調達だった。ただし、丸の内は宮城の正面ゆえ、雑然とした街になっては困る。きちんとした地域開発が出来る先に一括して売却するのが望ましい。

「国家あっての三菱です」

折からの不況で資金的余裕のある業者は少ない。だが、軍の意向は強い。松方正義蔵相は背水の陣で有力財界人と個別に交渉するが、いずれも言を左右にするばかり。澁澤栄一が、三井や大倉でコンソーシアムを組みライバル三菱と連名で払い下げるという企業連合の結成も画策したがうまくいかない。東京市が買い取ることも検討されたが、政府の売却希望価格が市の年間予算の3倍というのでは、とても手が出ない。

いよいよ時間切れとなり、見通しの立たないままに16の区画に分けて入札が実施された。3区画を除いて三菱が最高値をつけたが、案の定、全区画合算しても、政府の希望価格にはるかに及ばない。入札はキャンセル。大蔵省の失態である。追いつめられた松方は岩崎彌之助を訪ねた。政府の希望価格での買い取りを懇請する。なりふりかまわぬ松方に、彌之助は軍の力の台頭を垣間見た。熟考の末に決断する。

「国家あっての三菱です。お国のために引き受けましょう」

明治23年3月契約。丸の内の兵営跡と三崎町の練兵場併せて約10万坪。128万円(注1)。相場の2倍から3倍である。いくら三菱であっても経営の根幹を揺るがしかねない大変な金額である。

だが、智将・彌之助、松方に言ったきれいごとだけでの決断ではなかった。荘田平五郎と末延道成が、出張先の英国から「ロンドンのようなオフィス街」の建設を提案してきていた。彌之助の心の中でイメージが少しずつ膨らみ始めていた。それは、近代日本を象徴するビジネス街の誕生を意味する決断だった。(つづく)

  • ※1

    現在の丸の内パークビル

  • (注1)

    この領収書は三菱史料館に展示してあります。

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年1月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。