三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.11 三菱マークの起源

三菱マークの起源

今回は寄り道をして、スリーダイヤのマークの起源について考察する。

土佐藩開成館時代の藩船は山内家の三ツ柏の紋を船旗あるいは舳先に着けていた。九十九商会になってからはというと、彌太郎の「滞坂(たいはん)日記」明治3(1870)年閏(うるう)10月18日に「此の度より…名目を改め九十九商会と致し、紅葉賀(もみじのが)船夕顔船とも九十九商会へ申し受け東京飛脚船相はじめ候よう…免許を得たり。右船旗号は三角菱を付け候よう板垣氏へ相談置く」とある。『三角菱』がどんなものかの説明はここにはないが、真ん中の円から三方に菱形がひょろ長く伸びたデザインが初期九十九商会の商標として残っている。

滞坂(たいはん)日記

明治2年1月~明治3年12月の彌太郎の日記「滞坂日誌」。
スリーダイヤの形が明記されている。

さて、問題はの起源である。いつのころからか、スリーダイヤの起源は滞坂日記にいう三角菱とされ、それは岩崎家の家紋『三階菱』(正確には『重ね三階菱』)と山内家の家紋『三ツ柏』を組み合わせたもの、と説明されるようになった。

が、果たして、そうなのだろうか。明治3年の九十九商会発足の時点では、彌太郎は藩の代表として経営を監督する立場であって、まだオーナー的立場にはなかった。それに、いくら社会の変革期だったといえ、主君に仕える身で自分の家紋と恐れ多くも主君の家紋を足して二で割るというような発想をするだろうか。

もともと三ツ柏は、丸に入っていないと遠くからは三つのひょろ長い菱形に見える。初期九十九商会のマークも菱形はひょろ長くしかも三ツ柏と同様中心に円がある。であれば、三角菱は山内家の家紋の三ツ柏をデザイン化したもの、と考える方が自然なのではなかろうか。

三菱はなり

彌太郎が九十九商会の経営に直接采配を振るうようになるのは、発足からかれこれ一年たった明治4年の廃藩置県以降である。彌太郎は藩士の立場を失い、後藤象二郎らに説得されて九十九商会の経営者になった。10月15日の日記にはこう書いてある。

「余、商会に行き、商会の旗号ならびに船中の旗章とも、井の字に取り替えを命ず。この日、商会の諸子のこらず申し合わせし、余に酒肴を贈りて言う、今時の祝意なりと」

ぬ。ぬ。ぬ。満を持して経営に乗り出した彌太郎が今まで使ってきた三角菱を「井の字」にしろというのだ。これはひとえに三角菱が岩崎家の家紋とは関係ないことを意味するのではないか。(結局、取り替えは実行されなかったので今となっては「井の字」が何を意味しどんなデザインを意図したのかは不明である)。

ところで、スリーダイヤの先端の角度は当初30度程度だった。それが45度になり、やがて今日の60度になった。この角度増大の過程においては、岩崎家の『重ね三階菱』の菱形が意識され、「柏を菱で置きかえるのだ」という気迫が込められた可能性は十分ある。

スリーダイヤが入った用箋

スリーダイヤは明治8年以降、三菱関連文書に見られるようになる。
函館来翰 旗章御届(左)と、レターヘッドにスリーダイヤが入った用箋に書かれた各省寮司府県御達(右)

昭和28年の、三菱本社記録編纂委員会による「三菱商標に関する報告書」では、スリーダイヤの由来についていくつかの説を吟味した上で、「…山内家と岩崎家の紋所が関わっているということができよう」と結論をぼかしている。検証しきれない以上、そのくらいの表現が穏当であろう。

なお、明治6年の4月に、彌太郎は米国に留学中の彌之助に「…過日、九十九の名号を廃し…、此の度三菱商会と相改め候。三菱はなり」と手紙を書いている。毛筆なので菱の先端の角度や中心部の細かいことは分からないが、『三菱』の社名はのマークに由来するというわけである。(つづく)

手紙

彌太郎が彌之助に宛てた手紙の写し。毛筆で「」が書かれている。

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2003年3月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。