三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.12 台湾出兵と三菱

台湾出兵と三菱
日清両大臣北京において会見

西郷隆盛が下野したのは明治6(1873)年11月だった。急激な近代化に対応しきれない士族たちを背景にした征韓論が退けられたのだ。翌7年2月には江藤新平の佐賀の乱が起こる。不平士族のエネルギーは貯まりに貯まっていた。

そんな時代の中で、新進気鋭の海運会社三菱商会は、東京に本社を移し、その名も三菱蒸汽船会社と改めた。日本の沿岸航路は日本国郵便蒸汽船会社や米国や英国の海運会社が鎬(しのぎ)を削っていた。その激しい競争の世界へ三菱は参入した。

これより先、明治4年に台湾に漂着した琉球島民54人が殺害される事件があり、その処理を巡って日本は清国と揉めていた。政府は琉球の日本への帰属を清国に確認させる意味もあって強気で交渉にあたっていた。

7年5月、政府はついに台湾出兵に踏み切ることになった。輸送船の備えがないので英国や米国の船会社による兵員の輸送を想定していた。ところが、いざその場になると彼らは局外中立を理由に協力を拒否した。

やむなく政府は日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託することにし、大型船を急遽購入した。ところが、日本国郵便蒸汽船会社は政府の保護を享受している海運会社にもかかわらず煮え切らない。軍事輸送に関わりあっている間に、三菱に沿岸航路の顧客を奪われることを恐れたのだ。

国あっての三菱

兵3000余を率いた陸軍中将西郷従道(つぐみち)は準備完了した。もう待てない。長崎に設置された台湾蕃地事務局の大隈重信長官は、やむなく新興の三菱を起用することを決意、岩崎彌太郎を呼んで言った。

「かくなる上は三菱の全面的協力をお願いしたい」

沿岸航路に怒涛の勢いで事業展開を図ってきた三菱だった。大隈の要請を受けることは経営戦略を根底から覆すことになる。日本国郵便蒸汽船会社ならずとも迷う。

彌太郎は沈黙した。それから、団十郎よろしく目をむき出し、ドスのきいた声ではっきりと答えた。

「承知しました。国あっての三菱、引き受けさせていただきましょう」

社長独裁の三菱。彌太郎が決断した。国あっての三菱。『所期奉公』。その後も重要な局面になると必ず出てくる三菱の精神の、最初のストレートな発露だった。

三菱の決断を諒(りょう)とした政府は、計10隻の外国船を購入しその運航を三菱に委託した。三菱は、兵員・武器・食糧等の輸送に全力を投入した。

台湾出兵はマラリアによる500名余の死者を出しながらも政府の思惑通りに展開した。北京に派遣された大久保利通(としみち)は強気で交渉にあたり、10月英国公使の調停によって、出兵は義挙(ぎきょ)であり清は50万元の賠償金を払うということなどをうたった条約が締結された。

その後、三菱には更に3隻の大型船が委託された。13隻の大型船を運航することになった三菱は大きく力をつけて沿岸航路の競争に復帰した。経営判断を誤った日本国郵便蒸汽船会社はもはや三菱の競争相手たりえず、翌8年6月には解散に追い込まれた。

純粋に民間企業である三菱が、東京進出1年にして海運界のトップに伸し上がった。そのきっかけは「国のため」ということに判断基準を置いた彌太郎の決断だった。国とともにある三菱。近代国家日本と軌を一にして発展していく。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2003年4月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。