三菱人物伝
黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.13 上海航路の攻防
台湾出兵にあたって13隻の政府船を委託された三菱は、問題が片付いた翌明治8(1875)年、横浜・上海間に航路を開いた。東京日日新聞に掲載された広告に曰く「…乗組人は練熟せる西洋人にして航海の安心、荷物の取扱の厳重なるは申すに及ばず賄方(まかないかた)等も至って清潔丁寧なり…」
第一便である2月3日の東京丸には彌之助が乗船し、彌太郎は埠頭でこれを見送った。まさに感無量だった。
井ノ口村では裏山の妙見山(みょうけんやま)によく登った。頂から遥かに黒潮の海を見るのが好きだった。水平線の向うに米国がある。ジョン万次郎の話に、その当時まだ江戸も知らなかった彌太郎の胸は騒いだ。
上海航路は彌太郎の夢の実現の第一歩である。いずれ米国に、欧州に、世界の海に進出するのだ。
三菱蒸汽船会社の上海支社はフランス租界(そかい)に開設された。彌太郎の名代・彌之助は、ニューヨーク仕込みの英語で、外灘(ワイタン)に軒を連ねる各国の商館に挨拶をしてまわった。
5月、政府は海運政策をまとめた。閣議では、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論の末、大久保利通や大隈重信の意見が通った。政府保護下で民族資本の海運会社育成を図る。もちろん台湾出兵に協力した三菱を想定していた。
さて、上海航路で三菱の前に立ちはだかったのは、米国のパシフィック・メイル(PM)社だった。当然のように、際限ない価格競争に陥る。運賃はたちまち半値以下。彌太郎は社員に檄(げき)を飛ばす。
「…内外航路の権は全く西人の一手に帰したり。この時に当たりて海運の我国に必要なるは判然として明らかなり。…今日務むるところは…我国の前に横たわりたる妨害を払い航海の大権を我国に快復するにあり」
政府の助成策を享受
9月、政府は「第一命令書」(今でいう特別法)を交付した。有事の際の徴用を条件に三菱にさまざまな助成が与えられることになった。ただし三菱は海運に特化することが義務付けられた。(このため炭坑や鉱山などの事業は「岩崎家の事業」と位置付けられた)。
第一命令書
具体的助成策の目玉として、解散した日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が無償供与された。船舶数は一気に倍増する。三菱は政府御用達の意味を込め、社名に「郵便」を入れて「郵便汽船三菱会社」とした。
上海航路の決戦は続く。政府には、民族資本による上海航路確保は日本の生命線だという意識があった。駅逓頭(えきていのかみ)前島密がわが国海運の自立のためにPM社の営業権を買い取るべしと主張する。内務卿大久保利通もそのための財政支援を約束する。三菱はPM社と交渉に入る。交渉、交渉、また交渉。ついに営業権を買い取ることに成功した。
しかし、一難去ってまた一難。PM社の撤退を見て現れたのは英国のピー・アンド・オー(P&O)社。香港・上海・横浜航路に加え大阪・東京間にも進出、新興三菱に反撥する顧客を急速に取り込んでいく。三菱は荷為替金融など顧客サービスを強化させる一方で、社長以下給料半減など徹底した経費削減に努める。政府も外国船運航に各種の障壁を設け援護射撃。かくして官民合同の鉄壁の守りにP&O社も嫌気がさし、やがて撤退ということになる。民族資本による近海航路は確保された。快哉(かいさい)をあげる社員に彌太郎は言い放った。「ふん。これは、ほんの始まりにすぎん」
その後、天津、朝鮮、香港、ウラジオストックなどの航路を開設。彌太郎の夢は、着々と実現していく。(つづく)
文・三菱史料館 成田 誠一
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2003年5月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。