三菱の歴史

2024.02.15

【特集】
三菱の第4代社長
岩崎小彌太が共鳴し支え続けた、
成蹊学園創立者・中村春二没後100年

2024年は、成蹊学園の創立者・中村春二の没後100年にあたる。中村の親友で学園設立に大きく貢献した人物が、三菱の第4代社長の岩崎小彌太だ。そこで改めて小彌太の経歴を振り返り、中村との出会いや成蹊学園創立の物語を紹介する。

文化活動において大きな功績を残した岩崎小彌太とは

三菱を創設した岩崎彌太郎の跡を継いで三菱の第2代社長に就任したその弟・岩崎彌之助。彼の長男として小彌太は1879年(明治12年)に生まれた。

小彌太は成蹊学園への賛助のほかにも、コロンビア大学に日本図書館を創設した角田柳作に対してなど、文化活動の支援に多大な功績を残した。また、東京音楽学校研究科在学中の青年・山田耕筰のドイツ留学を援助。東京フィルハーモニー会の創設に寄与し、日本最初の本格的な民間管弦楽団となる管弦楽部を組織する(後に解散)など、西洋音楽の振興とオーケストラの育成にも力を入れた。

小彌太と中村春二の青春の出会い

岩崎小彌太、中村春二の学生時代

著名な国文学者・中村秋香(あきか)の次男・中村春二と、今村銀行の御曹司・今村繁三、そして小彌太の3人は、高等師範学校附属学校尋常中学科在学中に親交を結んだ。小彌太は温厚で、何ごとにも鷹揚で物事に動じず、真面目な人物だったという。

岩崎家は教育に熱心で、小彌太の父・彌之助は邸のそばに岩崎学寮を作り、援助していた優秀な学生たちを集めて質実剛健をモットーとした共同生活をした。小彌太は、弟・俊彌とともに中学、高校時代をこの学寮で過ごした。中村と今村はしばしばこの寮を訪ね、小彌太とともに将来の理想を語りあい、友情をあたためた。

1896年(明治29年)、中村と小彌太は第一高等学校に進み、今村は英国に留学。その後、中村は東京帝国大学文科大学の国文学科に進んだ。小彌太は東京帝国大学法科大学英法科に進んだが、中退してケンブリッジ大学に留学。

小彌太は英国流の自由で節度ある学校教育に影響を受け、中村宛に「私が帰国の際には国が押し付けた教育ではなく個性を尊重した教育をする学校を設立したいと考えている」「貧富による教育の差別を撤廃し、一般の人まで教育を普及させるべきだし、私は日本をぜひそういう国にしたい」といった手紙を送った。それは中村が教育の道を志す後押しとなった。

大きな友情は成蹊学園の創設へ

明治45年成蹊園 夜の凝念(中村先生及びご家族と塾生)

中村は「社会に必要なものは個性的、人格的、実践的な人間を育成することであり、高等教育は一部の有産階級が独占するものではなく、広く国民に門戸を開くべきだ」と考えた。中村に共鳴したのが小彌太と今村。1906年(明治39年)、当時29歳の中村は貧困家庭の子弟に学びの場を提供する学生塾 を開き、翌年「成蹊園」と命名。中村の決意に感動した今村と、開塾後に帰国して三菱合資会社の副社長に就任した小彌太は、財政的に中村を支えた。

1910年(明治43年)、中村は父・中村秋香の逝去によって約30万円の遺産を受け継ぎ、その大半を学園創設に費やした。1912年(明治45年)、池袋に成蹊実務学校を設立したのち、成蹊中学校、成蹊小学校、成蹊女学校、成蹊実業専門学校と相次いで設立。この事業に対して小彌太は「一議に及ばず参画する」とし、 今村も「この有意義な事業に対しては如何なる出血も厭わない」と賛同。学園の池袋時代に小彌太が投入した寄付金は70万円に達し、今村の寄付金も50万円を超えた。また、小彌太は資金の援助だけでなく、卒業生を三菱に積極的に受け入れ社会への橋渡しにも尽力した。

1925年(大正14年)、小彌太は理事長に就任。学園は一貫教育を実現するため新たに7年制高等学校を創設することになり、東京郊外の吉祥寺(現在の成蹊学園の所在地)に移転。同年、成蹊高等学校が開校した。中村はその前年、学園移転を目前にして病のため惜しまれつつ46歳で逝去した。

中村春二が亡くなっても続いた教育への支援

中村亡きあとも小彌太は理事長として、中村の遺志を受け継ぐべく学園を支え続けた。吉祥寺移転にあたっては、8万余坪の広大な土地が、小彌太の個人的寄付によって購入された。昭和恐慌においては私財をなげうち、戦時下も小彌太の援助により学園は経済的に揺るがなかった。

小彌太は、三菱の経営においては国家的事業観に立ち、その理念は「所期奉公、処事光明、立業貿易」の三綱領として現在も継承されている。学園経営にあたっても、常に「天下国家のために有為の人材を育成する」という信念を持っていた。

小彌太は成蹊学園を愛し、中村の理想の実現と発展のために献身的に援助したが、学園の教育に介入することは一切考えず、縁の下の力持ちに徹した。常に謙虚で学園の行事に出席することさえ遠慮したため、学園の職員や生徒たちのほとんどは理事長の顔を見たことがなかったという。小彌太は、1945年(昭和20年)、66歳で永眠。成蹊園の前身となる学生塾創設時から実に39年間にわたって中村と成蹊教育を支え続けた。

成蹊学園に残る中村と小彌太の絆

今も成蹊学園には、中村と小彌太の友情が偲ばれる史料や建築が残されている。

成蹊学園史料館

中村の建学の精神と、3人の友情の軌跡がわかる史料が多数展示されている。

清風荘

現在、中学・高等学校の校舎が建っている場所は、もとは岩崎農園の敷地。菜園、花壇、温室などがあり、清風荘という数奇屋づくりの建物があった。小彌太は多忙のなかでこの清風荘を訪れては、茶の湯をたしなみ、草木を愛でた。現在、清風荘は南西側の林に当時の名残がわずかに残されている。

岩崎元理事長鎌倉別邸の和風門

中学・高等学校の西門、扶桑通りに面して建つ和風門は、小彌太の鎌倉の別荘の正門が移築されたもの。鎌倉の別荘は小彌太が三菱合資会社社長に就任した1916年(大正5年)に、母・早苗の静養のために建てられたという。早苗が亡くなった後、門は成蹊学園に、母屋は東京麻布区長谷寺に移設された。母屋は1945年(昭和20年)の空襲で焼失。

卜ラスコン

TRUSCON STEEL COMPANY (アメリカ・オハイオ州)から輸入された鋼材で建てられたことに由来する「トラスコン」(屋内運動場)。戦時中には、このトラスコン内に「三菱電機成蹊工場」が開設され、勤労動員された旧制高等学校の生徒たちが夜遅くまでレシーバーの組立て作業に従事した。1993年(平成5年)、骨組みや外壁を生かして内装を一新し、学生等の憩いの場の「トラスコンガーデン」としてリニューアル。

岩崎小彌太元理事長記念レリーフ

本館前東側に建つレリーフは、成蹊学園創立50周年記念事業のひとつとして「小彌太の徳を偲び感謝の誠を捧げよう」と企画され、わずか2か月で目標額の100万円を超える募金の申込みがあった。除幕式は1959年(昭和34年)、大学創立10周年記念式典当日に行われた。

参考文献:中村浩著『成蹊教育 ―その源流と展開―』
みやぞえ郁雄(シナリオ協力・平良隆久)『大正自由教育の旗手 中村春二』
成蹊学園ホームページ

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