このページの本文へジャンプ

三菱グループのポータルサイトです。
文字サイズ
  • 小
  • 中
  • 大

三菱人物伝

朗読を聞く

青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.12 ジョサイア・コンドル (上)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.12 ジョサイア・コンドル (上)

鹿鳴館の外観と若き日のコンドル

鹿鳴館の外観と若き日のコンドル

尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張していた長州藩の井上馨(かおる)や伊藤博文たちが密かに英国に渡って世界を垣間見ていたことはグラバーの項で述べた。明治になり、その長州の精鋭たちが日本をリードする世となって、井上外務卿が「不平等条約の改正のためには日本が物心ともに欧化する要がある」と考えた原点が若き日の英国での見聞にあったことは容易に想像される。まずは上流階級の風俗・習慣が欧化されなければならない。英語を話し外交官など外国の賓客(ひんきゃく)とダンスなどに興じるのだ。その場所として立派な洋館が必要だった。

明治16年(1883)、鹿鳴館(ろくめいかん)が日比谷に完成した。赤い絨毯(じゅうたん)。きらめくシャンデリア。西洋音楽。紳士淑女の華やかな衣装。交錯するカクテルグラス。甘美な社交ダンス。井上が頭に描いたものが現実となった。設計は工部大学校造家(ぞうか)学科(東京大学工学部建築学科の前身)の教官として招聘(しょうへい)した「お雇い外国人」ジョサイア・コンドルだった。

コンドルはロンドン大学で学び、ゴシック建築の権威であるパージェスの設計事務所で腕を磨いた。1876年、王立建築学会の若手登竜門ともいうべきソーン賞設計コンペで優勝、その翌年日本政府の招聘を受け24歳で来日した。明治10年だった。来日するや彼は教鞭(きょうべん)をとるかたわら数多くの洋館の設計に着手、学生は教室での勉強だけでなく実際の西洋建築の設計・施工に携わることが出来た。築地訓盲院(くんもういん)、工部大学校の南門と門衛室、開拓使物産販売捌所(さばきどころ)本館…。コンドルはただ単に西洋建築を設計するのではなく、その土地の文化も採り入れた洋館の設計に努め、アラベスクなど東洋的なイメージも積極的に採り入れていった。

あだ花・鹿鳴館

鹿鳴館はルネッサンス風の2階建て。インドなど英国の植民地に多いバルコニー付きの建物で、良く手入れされた庭とセットになっていた。そこでは夜な夜な盛大なパーティーが繰り広げられ、のちに『鹿鳴館時代』という言葉を生んだほど一世を風靡(ふうび)した。しかし条約改正交渉はうまくいかず、やがて井上馨が失脚すると、鹿鳴館は一気にその役割を失った。わずか3年余の日本外交のあだ花だった。鹿鳴館は23年に宮内省に移管され、のち華族会館になり、やがて保険会社に売却され、昭和15年に解体された。

鹿鳴館はあだ花だったかも知れないが、日本の近代建築に残したコンドルの足跡は不滅である。明治16年に教え子の辰野金吾(たつのきんご)が4年間の英国留学から帰ると、コンドルは工部大学校教授の座を譲り工部省に移った。21年に退官して設計事務所を開設、岩崎家の邸宅のほか、数多くの「明治の洋館」を設計した。三菱の顧問にもなり、丸の内ニュータウンの建設も手掛けた。

しかしコンドルの真価が発揮されたのは工部大学校での教育・人材育成であろう。日本銀行本館や東京駅などを設計した辰野金吾、のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊(かたやまとうくま)、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣(せんしょうかく)」を手掛けた曾禰達蔵(そねたつぞう)など、そうそうたる建築家群を育て上げ、日本の近代化に大きく貢献した。

東大の工学部の中庭には、大正12年に建てられたコンドルの銅像がある。その長身の銅像の存在を知る学生は多いが、どんな人だったか関心を持つ者は少ない。嗚呼(ああ)。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年4月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

三菱人物伝トップページへ戻る