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岩崎彌太郎生家の管理を代々受け継ぐ管理人の「感謝の想い」
-三菱ゆかりの地便り 高知・安芸#7 -
弘田富茂さん・瑩子さんご夫妻。岩崎彌太郎生家の前で。周囲の風景と調和のとれた生家の佇まいと、当時の暮らしがしのばれる土間は、ご夫婦のお気に入りでもある。
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高知県安芸市の「岩崎彌太郎生家」は、主屋をはじめ蔵や番屋、練塀などを含む7棟が国登録有形文化財です。今回はこの生家を、明治の初め頃から代々管理人として守っている弘田富茂(とみしげ)さん・瑩子(えいこ)さんご夫妻に話を伺いました。
三菱ゆかりの地便り 高知・安芸#5では日々の美観維持活動についてご紹介しましたが、弘田さんは各種工事業者とのやりとりや、雨漏り等の点検、防火・防犯対策から災害時の被害確認など、邸内すべての建造物や樹木の保存管理、マスコミや観光案内などの取材対応、地元安芸市役所との連携、関係者の来訪時の案内、さらに書類の作成等々、文化財である生家を維持するための各種業務にお二人で対応しています。
なぜ弘田さんが管理人の任を担っているかというと、実は富茂さんのご先祖は、地主だった岩崎家の小作人でした。1855(安政2)年、彌太郎の父・彌次郎が重傷を負い、彌太郎も投獄されるという事件が起こります(参考)。この時に残された家族のこと、地主としての仕事などを、日ごろから彌次郎に恩義を感じていた富茂さんの高祖父(お祖父さんのお祖父さん)・宅平さん親子が手伝ったことから、岩崎家と弘田家との絆が深まり、その後岩崎家が家族一同で安芸を離れた1871(明治4)年以降、代々弘田家が生家の管理を担ってきました。
三菱ゆかりの地便り 高知・安芸#5では日々の美観維持活動についてご紹介しましたが、弘田さんは各種工事業者とのやりとりや、雨漏り等の点検、防火・防犯対策から災害時の被害確認など、邸内すべての建造物や樹木の保存管理、マスコミや観光案内などの取材対応、地元安芸市役所との連携、関係者の来訪時の案内、さらに書類の作成等々、文化財である生家を維持するための各種業務にお二人で対応しています。
なぜ弘田さんが管理人の任を担っているかというと、実は富茂さんのご先祖は、地主だった岩崎家の小作人でした。1855(安政2)年、彌太郎の父・彌次郎が重傷を負い、彌太郎も投獄されるという事件が起こります(参考)。この時に残された家族のこと、地主としての仕事などを、日ごろから彌次郎に恩義を感じていた富茂さんの高祖父(お祖父さんのお祖父さん)・宅平さん親子が手伝ったことから、岩崎家と弘田家との絆が深まり、その後岩崎家が家族一同で安芸を離れた1871(明治4)年以降、代々弘田家が生家の管理を担ってきました。
ご先祖が岩崎家の小作人だったことから代々生家を管理してきた富茂さん。50年以上管理人として務め、今年も100回以上生家を訪れている。
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富茂さんは1976(昭和51)年にお父さんの跡を継いで管理人となりましたが、それ以前からも手伝いに加わり、生家が紡いできた歴史を見てきた方です。
「生家に立派な記念碑がありますよね。あれはまだ父が管理人をしていた1963(昭和38)年に、三菱グループが立てたものです。工事はまず石を探すところから始まって、奈半利(なはり)町でいい石が見つかったというので私も一緒に見に行きましたよ。千貫(約3.8トン)あるそうですが、海からロープで引き揚げていましたね。基礎の石や記念碑の巨石などは滑車で吊り上げて据え付けていましたよ。重機もない頃に人力だけでよく立派に建立されたものですね」と、現在も重厚な存在感を持つ記念碑製作時のことを、当時の光景を思い出しながら話してくれました。
一方の瑩子さんは、結婚後から管理業務に携わってはいたものの、以前は生家の案内などはできなかったのだそう。大きな転機となったのが、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に彌太郎が登場したことでした。
「岩崎彌太郎岩崎彌之助伝記編纂会」から弘田家へ贈られた『岩崎彌太郎伝』。何度も開くうち傷んでしまったものを補修して現在も大切に使用している。岩崎家と宅平さんのエピソードもこの本に残っている。
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「以前は、生家を訪問される方というのは年間で500人程度でした。それが『龍馬伝』が放送された年は一年で20万人以上もお越しになりました。そうした方に質問されたときに私は何もお答えできなくて、はるばる来てくださったのに申し訳ないなと……。それからは基本的なご説明ぐらいはできるようになりたいと思い、伝記、手記などを念入りに読み返すようになりました」
「龍馬伝」の影響は非常に大きく、その年以降は今日に至るまで来訪者が途絶える日はありません。さらにここ数年は、起業家でもある彌太郎に憧れて来訪する人が増えたそうです。
「三菱グループとは関係ないですが彌太郎さんにあやかりたくて、と仰る方もいらっしゃって。ご案内をするときは、文化財としての生家のご説明に加え、彌太郎さんの生い立ちや、経営理念でもあった『国あっての三菱』という現在の三菱グループにも引き継がれている思いなどもお話させていただいています。お子さん連れの方には、彌太郎さんのようにたくさんお勉強しましょうね、とお話ししたり」(瑩子さん)
「龍馬伝」の影響は非常に大きく、その年以降は今日に至るまで来訪者が途絶える日はありません。さらにここ数年は、起業家でもある彌太郎に憧れて来訪する人が増えたそうです。
「三菱グループとは関係ないですが彌太郎さんにあやかりたくて、と仰る方もいらっしゃって。ご案内をするときは、文化財としての生家のご説明に加え、彌太郎さんの生い立ちや、経営理念でもあった『国あっての三菱』という現在の三菱グループにも引き継がれている思いなどもお話させていただいています。お子さん連れの方には、彌太郎さんのようにたくさんお勉強しましょうね、とお話ししたり」(瑩子さん)
弘田家が岩崎家の生家管理人であることはお見合いするまで知らず、驚いたという瑩子さん。各方面とのやりとりのためにパソコン操作も覚え、日々の管理業務に尽くしている。
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「彌太郎さんの大阪や東京での成功を宅平は安芸で伝え聞き、大変喜んだであろうことは想像に難くありません。彌太郎さんの伝記や母・美和さんの手記にも、先祖についてのエピソードなども残っているんですよ」(富茂さん)
お二人のお話からは、岩崎彌太郎を心から尊敬し、彌太郎の志、岩崎家と結んできた絆を大切に受け継がれていることが随所に感じられます。
「彌太郎さん一族は郷土が誇る偉人ですが、一方で代々身内のようにお付き合いをいただいて親近感も覚えています。彌太郎さんのご子孫にあたる寛彌様(2008年没)は年に一度は高知に見えられて、いつもご一緒させていただきました。ご祖父の久彌さんを『じいさん』とお呼びになって、度々思い出話を聞かせてくださいました。青く広々とした土佐の海が寛彌様のお気に入りだったようです」
二人三脚で代々の管理の仕事を務めてきたご夫妻ですが、多くの人々の協力や助け、時には運命的な出会いがあってこそのものでした。
お二人のお話からは、岩崎彌太郎を心から尊敬し、彌太郎の志、岩崎家と結んできた絆を大切に受け継がれていることが随所に感じられます。
「彌太郎さん一族は郷土が誇る偉人ですが、一方で代々身内のようにお付き合いをいただいて親近感も覚えています。彌太郎さんのご子孫にあたる寛彌様(2008年没)は年に一度は高知に見えられて、いつもご一緒させていただきました。ご祖父の久彌さんを『じいさん』とお呼びになって、度々思い出話を聞かせてくださいました。青く広々とした土佐の海が寛彌様のお気に入りだったようです」
二人三脚で代々の管理の仕事を務めてきたご夫妻ですが、多くの人々の協力や助け、時には運命的な出会いがあってこそのものでした。
1973(昭和48)年に弘田さんのご長男がご夫妻に連れられ初めて生家を訪れた際の写真。受け継がれてきた想いは次世代へも繋がっていく。
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「1980(昭和55)年に生家の屋根を藁葺から茅葺に変更することになったとき、予約していた大量の茅がとある事情でキャンセルとなってしまったんです。方々に問合せましたがどこにもなく困り果て、知人を頼って尋ね歩いていたところ、たまたま声をかけた方が元牧場主で、廃牧場に茅が生えているかもしれない、もしあったらタダであげるので持って行ってくださいと仰いましてね」
驚くべき出会いを得て、教えてもらった徳島県との県境にある廃牧場へと富茂さんたちは向かいました。
「知人と一緒に向かったものの、行っても行ってもそれらしき場所はないし暗くなるしで、本当に心細い思いでした。でもちょっと開けた場所が出てきたと思ったら、周り一面の茅が、夕日に照らされてきらきらと輝いていたんです。あのときの嬉しさと光景は、よう忘れません」
口々に当時のことをお話されるお二人は本当に嬉しそうで、いかにその出会いと厚意に救われたがひしひしと伝わってきました。こうして無事、生家の屋根は茅葺へとふき替えられ、現在も定期的な補修工事が続けられて美しい景観を保っています。
驚くべき出会いを得て、教えてもらった徳島県との県境にある廃牧場へと富茂さんたちは向かいました。
「知人と一緒に向かったものの、行っても行ってもそれらしき場所はないし暗くなるしで、本当に心細い思いでした。でもちょっと開けた場所が出てきたと思ったら、周り一面の茅が、夕日に照らされてきらきらと輝いていたんです。あのときの嬉しさと光景は、よう忘れません」
口々に当時のことをお話されるお二人は本当に嬉しそうで、いかにその出会いと厚意に救われたがひしひしと伝わってきました。こうして無事、生家の屋根は茅葺へとふき替えられ、現在も定期的な補修工事が続けられて美しい景観を保っています。
丁寧な管理で当時のままの趣を残す主屋(右)と、富茂さんの話にも登場した記念碑(左)。
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「かけがえのないご生家の管理をさせていたくことは大変な名誉と思っています。現状の保存に努めながら後世に残していくことを常に強く意識しています」(富茂さん)
「当時のままの生家をご覧いただいて、貧しい生活の中でも志を抱いて勉学に励み、偉業を成した彌太郎さんに思いを馳せていただいたり、若い方は志を抱くきっかけになったら嬉しいですね」(瑩子さん)
取材中、「当たり前のことをしてきただけで」「多くの方への感謝の気持ちでいっぱいです」と何度も口にされたお二人。そうした謙虚な敬いの気持ちが、今なお岩崎彌太郎生家を特別な場所にしています。きっとこの先も、訪れる人に特別な時間を与えてくれる場所であり続けることでしょう。
「当時のままの生家をご覧いただいて、貧しい生活の中でも志を抱いて勉学に励み、偉業を成した彌太郎さんに思いを馳せていただいたり、若い方は志を抱くきっかけになったら嬉しいですね」(瑩子さん)
取材中、「当たり前のことをしてきただけで」「多くの方への感謝の気持ちでいっぱいです」と何度も口にされたお二人。そうした謙虚な敬いの気持ちが、今なお岩崎彌太郎生家を特別な場所にしています。きっとこの先も、訪れる人に特別な時間を与えてくれる場所であり続けることでしょう。
※2024年11月7日掲載。本記事に記載の情報は掲載当時のものです。