三菱人物伝
雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.04 久彌を支えた人たち
「人の話を…丁寧に相槌を打ちながら、良く聞いてくれた。…その話の間に人を見ぬき事業の将来性も見極めていた…」。長らく久彌に仕え銀行の会長もつとめた加藤武男は、久彌の人物像を聞かれてこう語っている。
実際、久彌は若いころから聞き上手だった。まず相手の話をじっくり聞き、信頼できるとなると、方向性は確認するが各論は任せた。人を信頼し人に信頼されるという、人の上に立つ者に必要な資質を持っていた。
彌之助が、彌太郎の遺言とはいえ、まだ28歳の久彌に三菱の総帥を譲りえたのは、自分を含め彌太郎以来の幹部が脇を固めていたからである。郵船の近藤廉平、東京海上火災の末延道成、鉱業の南部球吾、営業の瓜生震。いずれも久彌が信頼し久彌を信頼した人たちである。ここでは性格的にもおよそ対照的な管事(社長に次ぐ立場)2人、荘田平五郎と豊川良平の人となりを見よう。
慶應義塾の福沢諭吉の教え子、荘田平五郎は豊後臼杵藩士のもとに生まれた。久彌よりも18歳年長で、慶應義塾卒業後、いったんは母校の教師になったが三菱に入社、「会社規則」を制定し複式簿記を採用するなど、近代的会社経営の基礎作りをした。1881(明治14)年に経営危機の高島炭坑を彌太郎が後藤象二郎から買い取ったが、これは後藤が借金漬けで政治生命を失うことを危惧した福沢諭吉が仕組んだもので、そのとき荘田は恩師とボスの中継ぎをしている。冷静緻密。岩崎家の代理人として、日本郵船ほか多数の企業の創立に参画、東京海上、明治生命などの会長もつとめた。
造船王国三菱の基礎固め
荘田は久彌体制では管事として重きをなし、50歳のとき長崎造船所の支配人として赴任、三菱の主力産業に成長しつつある造船の近代化に取り組んだ。ことに建造船舶ごとに労務費や材料費など製造原価を把握するとともに、減価償却の概念を導入したことは、長崎造船所の競争力を高め、造船王国三菱の基礎を固めた。夫人は彌太郎の妹の娘、すなわち久彌の従姉である。
一方、豊川良平は彌太郎の従弟でやはり慶應義塾の卒業生。幼名を小野春彌といったが、豊臣秀吉の豊と徳川家康の川、漢王朝の智将、張良の良と陳平の平をとって改名した。彌太郎が作った三菱商業学校やその後身の明治義塾の運営に関わった。13歳年少の久彌が慶應義塾と三菱商業学校に学んでいたときは一緒に下宿し公私にわたり指導した。豪放磊落で、明治義塾の英語の授業ではひどい土佐訛りをものともせず、おまけにknifeをクナイフ、knowをクノーと発音して動じず、生徒たちからは「クノー先生」と慕われた。
その後、政治を志し犬養毅と東海経済新報を出版したりしたが、37歳のとき三菱の経営陣に加わり第百十九国立銀行の頭取になった。同銀行はやがて合資会社の銀行部になり、豊川が部長に就いたが、細かいことは三村君平、串田万蔵らプロに任せ、自らはもっぱら政財界に人の輪を広げて久彌社長を大いに助けた。
ちなみに、豊川の長男の順彌は三菱には入らず、1920(大正9)年、白楊社を設立、純国産乗用車の設計・製造に豊川が残した全財産をつぎ込んだ。知る人ぞ知るオートモ号。わが国最初の量産乗用車であり、輸出第一号車だった。
文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年8月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。