三菱人物伝

雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.05 丸の内オフィス街の建設

久彌が米国留学を終えて三菱社の副社長になる前年、彌之助は丸の内の兵営跡地など10万余坪を陸軍省から購入した。1890(明治23)年のことである。この土地払い下げは、財源に苦しむ政府が、麻布に新兵舎を建設するための費用を捻出しようとしたもので、政府の希望価格は相場の数倍だった。当然買い手がつかない。困り果てた松方正義蔵相が自ら彌之助を訪ねてきて、政府を救うと思って買い取るよう懇請した。

国家に尽くすことは三菱の社是である。彌之助は苦慮した末に、高値購入を決断した。契約名義は「岩崎久彌総理代人岩崎彌之助」。(後に商法が整備されてから三菱合資会社が買い取った)。代金は128万円。当時の東京市の予算の3倍というから大変な買い物だった。

実は、彌之助のこの決断の裏には英国に出張中だった管事・荘田平五郎の「スミヤカニカイトラルベシ」の電報があった。荘田は、ロンドンをイメージした丸の内ビジネス街の青写真を頭の中に描いて帰国した。

東海道線はまだ新橋まで、中央線は御茶ノ水までで、丸の内はまことに不便な地域だった。唯一、日比谷・大手町間に路面電車が走っていた。少し時代が下がるが、丸の内について岡本かの子が書いている。

「私が子供だったころの丸の内は、三菱ヶ原と呼ばれて、八万坪余は草茫々の原野だった。…武家屋敷の跡らしく変った形をした築山がいくつかあった…」

ちなみに、東京駅が完成し丸の内が交通の要所になったのは、ずっと後の大正3年である。

「一丁倫敦」の誕生

明治26年に、久彌が三菱合資会社の社長に就任。翌27年、ジョサイア・コンドル設計による記念すべき三菱第1号館が、今の三菱商事ビル本館の位置に竣工した※1。赤煉瓦造りの3階建て。三菱合資会社ほか2社が入った。以後、第2号館が現在の明治生命本社ビルの位置に、第3号館が馬場先通りをはさんで新東京ビルの位置にできた。4番目は東商ビルの位置の東京商業会議所だった。ロンドンを彷彿とさせる街並みはやがて「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ばれるようになった。

かくして日本初の本格的オフィス街が丸の内にできていくのだが、初期のビルの内部は棟割りにして設計され、各事務所ごとに独立した玄関、階段、トイレを持つ縦割り長屋方式だった。大正3年竣工の三菱第21号館で、初めて現在のように玄関、エレベーター、トイレその他ユーティリティーを共有する方式となり、テナントも多数を集める賃貸ビルになった。

ちなみに、煉瓦造りではない現在のようなアメリカ型のビルは、大正7年の東京海上ビルが嚆矢(こうし)である。丸ビルは同12年だった。

明治41年、久彌が三菱に今日の事業部制を採用したことは先に述べたが、桐島像一を部長として地所部ができたのは少し遅れて44年だった。ようやく不動産業が独立した事業として認められたのだった。

久彌の社長在任期間はまさに丸の内オフィス街建設の時期でもあった。その丸の内に煉瓦造りのビルはもうない。高さの統一された四角いビル群に、最近ブティックやカフェが続々オープンした。丸の内は21世紀に向けて大きく変わろうとしている。久彌やコンドルが見たら、どう思うだろうか。

  • ※1

    2009年、三菱一号館復元

文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。