三菱人物伝

雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.06 海から陸へ・鉱業と造船

時は明治から大正にかけて。殖産興業、産業革命。そして重工業形成の時期。わが三菱は、久彌社長の時代である。当時の三菱の二本柱である鉱業と造船事業において、それぞれ画期的なことがあった。

まず鉱業。1873(明治6)年、政府は鉱物資源を国家に属するもの、と規定した。諸藩経営の有力鉱山は官営となり、近代化のために膨大な国家資金が注ぎこまれた。だが、インフレと不景気の波状攻撃に苦しむ政府は、西南戦争時の不換紙幣を整理して財政の健全化を図るため、鉱山の民間払い下げに踏み切った。

三菱は、明治14年の高島炭坑を手始めに、長崎の端島、筑豊の新入、鯰田、上山田、方城、唐津の相知、芳谷、北海道の芦別、美唄、大夕張などを次々に買収。金属鉱山も吉岡に加え、尾去沢(秋田)、槙峰(宮崎)、面谷(福井)、荒川(秋田)などを取得した。金属鉱山払い下げのハイライトが、古来わが国一の銀山として有名な生野鉱山と、徳川幕府を潤した佐渡の金山だった。いずれも明治に入って技術革新が行われ、模範鉱山になっていた。その二鉱山に、最新の設備を誇る大阪製煉所を加えての一括入札。帝室御料財産として宮内省が管轄していたため最後まで官営で残っていたのだ。民間払い下げの総決算。これを三菱が落札し、住友や古河を切歯扼腕させた。明治29年、久彌のリーダーシップによる快挙である。

彌太郎以来の懸案である海から陸への事業展開が大きく広がった。

造船部幹部を諌めた久彌

一方、造船事業では長崎造船所の常陸丸建造が、この時期のエポックメイキングな出来事だろう。

明治28年の暮れ、日本郵船では欧州航路開設のため6000トン級貨客船を6隻造ることが決定された。そのうち1隻は長崎造船所に発注された。当時はこの規模の船舶はイギリスでしか造れず、長崎造船所の実績はせいぜい2000トン級までだった。このため建造にあたってはイギリスのロイド協会の技師が長崎に派遣され、異常なまでの厳しい品質検査を実施した。工期は遅れに遅れた。このとき対策の陣頭指揮をとったのが、管事で造船所支配人の荘田平五郎だった。不信感から出発したこの検査は、やがてロイドも常軌を逸したものと認め、後任が派遣されて検査承認がおり、引き渡しは完了した。

三菱はこの常陸丸建造により膨大な損失を出したが、6000トン級汽船の建造実績ができた。それは、やがてアメリカ航路の天洋丸など1万3000トン級豪華客船3隻の受注に結びつき、さらには大型軍艦の建造を任され、造船王国といわれるまでの飛躍的発展の基になった。

日露戦争の後、造船業界を二分していた某造船所の経営が行き詰まり、救済合併の打診があった。ライバルがわが軍門に下る。造船部の幹部は天下を取ったような気分で、三菱一号館の社長室に急いだ。

ところが、話を聞いた久彌社長は、

「それはいけません。合併して競争がなくなってしまうとどうしても気がゆるみます。それでは日本の造船界は発展しません。あくまでも両社が競争して安くて立派な船を造ること、それがお国のためというものです」

と、意気込む造船部幹部を諌めた。自由競争を旨とした久彌らしいエピソードである。

文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年10月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。