三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.02 焦るな、いごっそう

焦るな、いごっそう

土佐の男は『いごっそう』。一本気で妥協を許さない。強情っぱりだ。酒飲みが多い。何せ、殿様自ら鯨海酔候(げいかいすいこう)と称するお国柄だ。昔から土佐では酒を飲みすぎて死ぬと、「ようそこまで飲んだのうし」と賞賛されたという。「土佐鶴」「司牡丹」「酔鯨」「志ら菊」「玉の井」「無手無冠」「桂月」「松翁」…のんべえにはたまらない響きを持つネーミングだ。

岩崎彌太郎の父・彌次郎ものんべえだった。元郷士とはいえ、実質的に貧農の身であってみれば不満も多かったろう。酒を飲んではトラブルを起こした。

父・彌次郎

岩崎彌次郎(1808-1873)

一方、しっかり者の母・美和は子供の教育には一家言を持ち、彌太郎がめそめそ泣いても 一切無視した。その結果、負けず嫌いで直情径行、やると思ったらとことんやる、実にエネルギッシュな若者が育った。母譲りで、向学心が人一倍強く、しかも才気縦横の若者だ。

母・美和

岩崎美和(1814-1900)

時は幕末。土佐には坂本竜馬、武市半平太、中岡慎太郎、後藤象二郎、板垣退助ら、今日ではお馴染みの男たちがひしめいていた。ロシア船やイギリス船が日本近海に現れた。清国が欧米列強に蹂躙(じゅうりん)される様子も伝わってきた。若者たちは、ある者は攘夷を唱え、ある者は開国を主張したが、時代の変わり目にあるという認識は同じだった。

土佐・中濱村出身の万次郎が帰国したのは、嘉永4(1851)年だった。10年前に太平洋で遭難し、幸運にも米国の捕鯨船に助けられ米国本土で教育を受けた。土佐藩では画人にして学者の河田小龍に万次郎の話を「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」として纏めさせた。参政の吉田東洋は万次郎に直接海外事情を問いただし、甥の後藤象二郎とともに世界地図に照らしながら理解しようとした。エキサイティングな話は当然藩内の下級武士たちにも伝播され、血気にはやる青年たちの火に油を注いだ。

運命は、ついに動き出した

嘉永6年、ペリーが浦賀に来航した。 強大な武力を背景に欧米列強がわが国に開国を迫ってきたのだ。ロシアのプチャーチンも来た。幕政は混迷を極めた。老中阿部正弘、諸大名に意見を求める。翌年、再びペリー来航。米国艦隊は神奈川沖に停泊して幕府に迫り、ついに日米和親条約が締結される。下田と函館が開港された。

彌太郎は伯母が嫁いだ土佐藩随一の儒学者岡本寧浦(ねいほ)について学んでいた。学問は、貧しくとも頭のきれる少年が世に出る道だった。彌太郎の勉強には鬼気 迫るような熱がこもっていた。が、彌太郎は満足できないでいた。土佐には緊張感がない。江戸へ出たい。江戸へ出たい。

とにかく江戸に出たかった。郷士でもない者が国を出ることは難しい。それが、江戸詰めになった奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)の従者ということで実現する。安政元(1854)年。やった、やった、という思いだったろう。

いよいよ明日は旅立ちという夜、彌太郎は村の裏手の妙見山に登った。月明かりに太平洋が見える。彌太郎は山頂の星神社の門扉に墨痕鮮やかに書き記した。

「吾れ、志を得ずんば、ふたゝび此の山に登らず」

いごっそうなればこその、大変な気負い。これ無くして大事はなし得ない。幕末・維新の志士たちは大酒を食らっては大言壮語した。彌太郎はまさしく土佐の志士だった。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年6月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。