三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.03 彌太郎、江戸へ

彌太郎、江戸へ

ペリーは7隻の軍艦を率いて再びやってきた。神奈川沖(今の横浜)に錨を下ろした黒船の迫力に圧倒されて、日米和親条約を締結したのは安政元(1854)年。その年の秋、彌太郎は江戸詰めとなった奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)の従者としてついに江戸遊学のチャンスをつかんだ。彌太郎が舞い上がったのは想像に難くない。ただでさえ、苦しい生活だったが、おそらくは母美和の強い意向であったであろう、両親は先祖伝来の山林を売って遊学費用を捻出した。

そのころ、武市半平太は鏡心明智流の剣を江戸で学び高知に戻っていた。坂本竜馬は江戸の千葉定吉の道場で北辰一刀流の修行中だった。板垣退助や後藤象二郎はまだ高知にあった。明治維新まであと14年だった。

江戸に着いた彌太郎はまずは江戸見物。奥宮慥斎と来る日も来る日も好奇心丸出しで見て歩いた。筋違御門の前に来たとき、大きな声で

「まっこと、徳川の天下も、もはや末じゃのう」。

仰天した慥斎、慌てて彌太郎の袖を引き、

「ばかが。場所柄もはばからず何ちゅうことをいうがか!」と叱責すると、

「大切な御門を警護するがに、あんな老いぼれじゃったら、メリケンに侮られるがもやむを得んぜよ」。

幸い江戸の人間には、土佐訛りはにわかには理解出来なかった。

慥斎の尽力で、彌太郎は念願の安積艮斎(あさかごんさい)の塾に入る。見山塾といい、駿河台にあった。艮斎は当時の最高学府である昌 平黌(しょう へいこう)の教授で名声は全国に轟いていた。筆頭塾生は彌太郎の親戚でもある岩崎馬之助だった。

集中力の人でもあった

その馬之助に対するライバル意識も強烈にあったであろう。彌太郎の勉強ぶりは常軌を逸するものがあった。この時の塾生が言っている。

「岩崎は豪邁不羈(ごうまいふき)※1ともいうべきやつで、ありとあらゆる書を読んでおった。あの集中力は到底われわれのおよぶところではなかった」

後年のがむしゃらな人生を思わせる頑張りようだったらしい。

江戸に出てきてからの見聞が人生観を変えたのか、もともと血の気が多すぎたのか、彌太郎は孔孟の道を説く儒者になる気はなくなっていた。むしろ治国経世の学を修めて自らの処世に結びつけようという意識が強くなっていた。一方、この多感な時期に艮斎によって磨かれた漢詩漢文の才は彌太郎の生涯を豊かなものにした。

黒船の来航にあわてた幕府は、泥縄ながら武器や洋式艦船の建造に着手していた。品川には急遽、砲台を構築中だった。そういう中で、彌太郎は安政の大地震に遭遇した。まさに天変地異、社会変革の兆し。彌太郎は持ち前の強い意志と行動力で、恩師の親戚や知人の救助に獅子奮迅の活躍をする。ガリ勉であるだけではないのだ。艮斎も塾生も彌太郎には一目も二目も置いた。

ところが、好事魔多し。江戸も寒くなった12月の始め、土佐の足軽が藩邸に母からの書状をもたらした。父がかねてより犬猿の仲の庄屋に滅多打ちにされて重傷とのこと。またまた酒の上でのことらしい。しかし何にもまして家族の絆の強いのが岩崎家である。彌太郎は迷わず帰国を決断する。

江戸遊学は一年あまりで挫折。艮斎や塾生たちに惜しまれながら江戸を後にした。19の冬。馬を使った早飛脚ですら14日かかるところを自らの足で16日目に井ノ口村に着いた。(つづく)

  • ※1

    豪邁不羈=すばらしく才識優れ常規では律しがたいこと

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年7月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。