三菱人物伝
黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.01 土佐の岩崎家
「ふんぎゃあ、ふんぎゃあ…」
強烈な呱々の声。産婆も一瞬たじろぐほどの生命のほとばしり。
「こがな太い声で泣くややこは、あていは初めて見たぞね。こりゃあ、きっと天下を取るような大物になるろうね…」
岩崎彌太郎。幕末の激動の中を駈け抜け、武士から実業家に転身し三菱を創始した男。土佐国、井ノ口村。貧しい村の貧しい家に生まれた。明治維新まで33年、1835(天保5)年のことである。
所在地:高知県安芸市井ノ口一之宮
彌太郎、土佐、そして母
土佐は山国。四国山地を北の境にして、裾野が太平洋まで目一杯広がる。他国から隔絶された厳しい地形。だが、真っ青な空、紺碧の海がある。東のはずれは室戸岬、西のはずれは足摺岬。海岸の細く長い平地に、土佐の国の大半の人が住んでいる。
井ノ口村のあたりは、安芸氏が長いこと治め、戦国時代末期にいたり長宗我部氏が統一した。しかし、長宗我部氏は関が原の戦いで西軍についたため土佐を追われ、論功行賞で遠州掛川から山内一豊が入国した。以後、明治4年の廃藩置県までの280年余、土佐は山内氏が治めることになる。
岩崎家は甲斐武田の末裔だといわれる。それゆえに、家紋も武田菱に由来する「三階菱」。岩崎氏は永らく安芸氏に仕え、のち長宗我部氏に仕えた。山内氏入国後は山野に隠れて農耕に従事していたが、江戸中期にいたり郷士として山内氏に仕えるようになった。
郷士は、平時は農耕に従事しているが一朝事あるときは駈けつける「半農半士」である。天明以来飢饉が続き、各地で一揆が起きるなど農村の疲弊は極限に達していた。岩崎氏も彌太郎の曽祖父のときついに郷士の資格を売って食いつながざるをえないところまで追いつめられた。彌太郎が生まれたとき、岩崎家は正確には「元」郷士の家であり、地下浪人といわれる立場だった。
彌太郎の母・美和は安芸浦西ノ浜の医者の娘だった。13歳で父を失い高知に出て藩士五藤某の屋敷に奉公した。15歳の時には母をも失った。長兄、次兄とも医者になり、姉は土佐藩随一の儒者岡本寧浦に嫁いだ。ということは、苦しい境遇にありながらも必死に努力した兄妹だったということであろう。美和は16歳のとき長兄の妻の遠縁にあたる地下浪人・岩崎彌次郎に嫁いだ。
岩崎美和(1814-1900)
美和は逞しさと優しさを身につけていた。ある年の暮、近所の女が涙ながらに用立てを頼みに来た。美和はかねがねこの女の性格の弱さを歯がゆく思っていた。
「…お断りするがで。どがな状況じゃぢ、備えをしちょくがが、妻たるもんの役目ぞね」
美和は女がとぼとぼと帰る姿を見届けると、畦道を先回りして女の家に行き、障子の破れ穴からなけなしの小銭をそっと投げ入れた。
彌太郎の母はそういう気配りの人だった。のちに彌太郎が実業界で成功してからも岩崎家の精神的支柱であり続け、いわばゴッドマザー的存在として一族の敬愛を一身に集めた。
村の北側にあるのが妙見山。頂には神社がある。村一番の腕白坊主になった彌太郎は子分を率いてよく登った。足元には井ノ口村の田畑や家々が広がり、遥かに太平洋がきらきらと光る。黒潮の海。夏は水平線に積乱雲がもくもくとわく。(つづく)
文・三菱史料館 成田 誠一
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年5月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。