三菱人物伝
黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.08 九十九商会の発足
開成館長崎出張所(長崎商会)の主任として岩崎彌太郎は、金策に奔走し、蒸気船や武器を買いまくり、樟脳など土佐の物産を売った。
が、時代とともに舞台は変わる。神奈川(現在の横浜港)や兵庫(現在の神戸港)が開港したことにより長崎は独占的な対外窓口ではなくなった。外商たちは横浜や神戸・大坂に移っていく。しかし、彌太郎は長崎商会や海援隊の残務整理の毎日。かつての志士たちは、東京や大坂で仕官の道を得て行く。自分は蚊帳の外。焦る彌太郎は自分を長崎商会主任にした後藤象二郎が頼み。大坂に訪ねて転勤を訴え、長崎に戻ってからも再三書状を送った。
後藤は忘れていなかった。明治2(1869)年、彌太郎は開成館大阪出張所(大阪商会)に異動、責任者に抜擢された。長崎での経験を活かし、商船隊を率い、外国商館との取引や大阪商人との売買に実力を発揮し、藩の財政に貢献するのだ。
ところが、明治政府は藩営事業を禁止しようとしていた。足を中央に抑えられては、これから飛躍しようとしている土佐人の立場は脆弱なものになる。藩の事業が禁止される前に私商社を立ち上げ海運事業を引き継がせてしまおう。そうすれば、少なくとも高知・神戸航路は引き続き確保出来る。林有造(はやしゆうぞう)ら土佐藩首脳はそう考えた。
翌年閏(うるう)10月、土佐藩士たちにより、九十九(つくも)商会が設立された。九十九は土佐湾の別名に因(ちな)む。海援隊で操船経験のある土居市太郎と、長崎商会で貿易実務を経験している中川亀之助の二人が代表になった。藩の立場から事業を監督するのが彌太郎だった。藩船3隻も九十九商会に払い下げられた。
主たる事業は汽船廻漕(かいそう)業、すなわち海運だ。高知・神戸間に加え、東京・大阪間の貨客輸送も担う。かたわら外国商館や大阪商人との物産の売買、それに紀州藩から取得した炭坑の経営も行った。
彌太郎、藩の幹部となる
同年、彌太郎は土佐藩の少参事に昇格、大阪藩邸の責任者になった。少参事といえば中老格。れっきとした幹部である。時代の変革の中とはいえ、一介の郷士がよくここまで出世したものである。非凡な才覚と強靭な精神力、それに視野の広さゆえであろう。
彌太郎は西長堀(にしながほり)の藩邸の一角に住み、蔵屋敷の事業や九十九商会の活動の監督に忙殺された。人材育成にも気を遣い、藩邸に居候して漢学や洋学を学ぶ若者たちに、「これからは欧羅巴(ヨーロッパ)・亜米利加(アメリカ)が相手」と英語の修得を奨励した。
彌太郎は大阪藩邸で英語教師トーマス・ヘリヤーを雇用した他、英語塾を開き、米国人教師へースを招聘するなどして英語教育に尽力した。この英語塾では、弟・彌之助、豊川良平、川田龍吉等が学んだ。写真は、当時英語学習の教材として使用されていた「英語箋」。豊川家より寄贈され、現在は三菱史料館に所蔵されている。
成り上りの彌太郎が大阪で取り仕切るのを嫌う者が土佐には多かった。私腹を肥やしていると疑う者もいた。あるとき、石川七財(いしかわしちざい)が内偵のために派遣されてきた。彌太郎は即座にこれを見抜くと、石川に帳簿など一切を見せ、「これからの日本は海運と貿易だ。これを強化せずして日本の将来はない。お前もわしと一緒にやらんか」
石川は彌太郎の世界観に共鳴し、九十九商会に入ることになった。石川は大局を誤らない豪胆な男で、のちに、計数に強い川田小一郎(かわだこいちろう)とともに、彌太郎の事業を支える二本柱となった。
横浜の日本郵船歴史資料館に大きな鉄製の天水桶がある。火災に備えて九十九商会の店先に明治3年に設置された。「九十九商社」の文字と、中心の小さな円から三方にひょろ長い菱形が伸びる船旗号(せんきごう)(スリーダイヤの原型)がついている。まさに三菱の原点を示すモニュメントである。(つづく)
天水桶
(日本郵船歴史博物館所蔵)
文・三菱史料館 成田 誠一
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年12月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。