みにきて! みつびし

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財閥令嬢から孤児たちの母に。澤田美喜の祈りと思いを受け継ぐ施設

澤田美喜記念館/エリザベス・サンダース・ホーム

施設DATA

  • 三菱ゆかりの地・施設
  • 博物館・美術館
  • 家族/子供と
  • 友達/カップルで
  • 一人で
  • 予約不要
  • 駅近
  • 雨でもOK
  • 入場無料

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こんにちは! 事務局のカラットです。自分と他者との違いを受け止め多様性を認め合う、「インクルーシブ」という考え方が近年提唱されています。ですが今から70年以上前、外国を敵・味方でみる戦争の価値観や、無理解による偏見が少なくなかった時代に、混血孤児の養育に生涯をささげた女性がいました。三菱第三代社長・岩崎久彌の長女、澤田美喜です。今回は澤田美喜の功績を伝える澤田美喜記念館と、その思いを受け継ぎ、現在もさまざまな子どもたちへの支援事業を続けているエリザベス・サンダース・ホームにお邪魔してきました。

神奈川県中郡大磯町は、南は相模湾に面し、北は大磯丘陵を擁した町で、日本最初の大衆海水浴場があることなどから、明治中期以降、多くの著名人が邸宅や別荘を建てたことでも知られる土地です。三菱第二代社長の岩崎彌之助も、母・美和の療養地としてこの大磯の土地を購入しました。現在の大磯駅の目の前にある小高い丘はこのことから「岩崎山」と呼ばれており、澤田美喜記念館はこの丘の上にあります。

彌之助、そして兄で三菱創業者である彌太郎にとって、母・美和はさまざまな教えで人生を導いてくれた、この上なく大切な人でした(参考)。その美和の「美」と、彌太郎の妻(久彌の母)・喜勢の「喜」の字を取って名付けられたのが、1901年9月19日に誕生した久彌の長女・美喜でした。

美喜はある時、「『1』と『9』しかない誕生日に生まれた人は数奇な運命をたどる」と告げられます。そしてその言葉どおり、美喜の生涯は「財閥のご令嬢」のイメージとは大きく離れたものとなりました。社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホームの敷地内にある澤田美喜記念館では、その生涯を、展示を通して知ることができます。

澤田美喜記念館があるのは大磯駅前の「エリザベス・サンダース・ホーム」の敷地内。春は桜がお出迎え。(写真提供:エリザベス・サンダース・ホーム)
ノアの方舟をイメージした記念館の外観。日本初の免振建築物でもあり、入り口あたりが地面から浮いて見えるのがその証。(写真提供:エリザベス・サンダース・ホーム)

「汝の敵を愛せよ」への衝撃

展示されている外交官夫人時代の大量のパスポート。これでも一部だとか! 写真は美喜の子どもたち。

澤田美喜の生涯を知る上で、キリスト教の存在は欠かせません。美喜は少女時代にキリスト教に興味を持ち、聖書の一節「汝の敵を愛せよ」という言葉に、大きな衝撃を受けました。世は日露戦争を経て第一次世界大戦が始まろうという時代。「敵」を「愛する」という、当時の通説的価値観を覆す考えでした。そんな美喜は外交官でクリスチャンだった澤田廉三と結婚し、自身もクリスチャンとなります。

記念館では、外交官夫人として世界を巡った美喜にまつわる品々が展示されています。大量のパスポートや、賓客との交流で使用された茶器類、立派な化粧道具箱、フランスの画家マリー・ローランサンに師事し描いた油絵、そしてエレガントなドレスに身を包んだ美喜の写真などなど、華やかだった当時の日々がしのばれます。

ですがこれらは記念館の一角。メインとなる展示は、美喜が生涯収集した貴重な品々――隠れキリシタンの遺物です。美喜は幼少より祖母喜勢から岩崎家にまつわる昔ばなしをよく聞かされ、母からは武士道の本を読むように薦められていました。命を懸けて信義を守る武士と、命がけで信仰を守る隠れキリシタンとの間に共通する精神を見出し、散逸を防ぐためこれらの遺物を収集しました。1936年から40年間、各地を訪れては集めたというそのコレクション数は800点を超え、中には世界的に見ても大変貴重なものも数多く存在しています。

たとえば国内最古級の信仰画とされる「ご聖体の連祷と黙想の図」は、安土桃山時代に描かれた横3.2mに及ぶ巻物で、「受胎告知」や「受難」など15の場面が描かれています。展示されているのはレプリカですが、今回の取材で特別にオリジナルを見せていただきました。

「ご聖体の連祷と黙想の図」(レプリカ)。当時の日本人にも伝わるよう、聖書に書かれた15の場面を絵で表現したもの。ラテン語の祈りの言葉もひらがなで書かれている。
こちらは特別に見せていただいたオリジナル。「磔刑」の場面(中央)のキリストが薄くなっており、当時の信者が指で触れながら祈った息づかいが伝わってくる。

他にも、キリスト教への弾圧から逃れるために聖母マリアを擬して作られた観音菩薩像「マリア観音」や、十字を刻み込んだ刀の鍔(つば)、明智光秀の娘でキリシタンとして知られる細川ガラシャゆかりの品、そして一見普通の鏡ながら、反射光を当てるとキリストの像が映る「魔鏡」(展示は現代の職人による、これも希少な再現品)など、日本における隠れキリシタンの歴史に、そこに込められた信仰の気持ちとともに触れることができます。

オリジナルの魔鏡で実演いただきました。鏡に光を当てて壁に反射させると、経年や火災の影響で薄れてはいるものの、磔(はりつけ)にされたキリスト像が。
壁一面に展示された、大小さまざまなマリア観音像。キリスト教が禁じられた時代に必死に信仰を守り抜いた人々の祈りの結晶。
美喜が世界各地で収集したロザリオ。

1987年に完成した澤田美喜記念館は、もともとはこれらの品を収集した美喜の意志を引き継いで開設された展示施設でした。しかし、このコレクションを集めた、そしてエリザベス・サンダース・ホームを設立した澤田美喜という人物、その生涯をもっと知ってほしいという思いから、美喜個人に関わる品々の展示を2022年から開始したのだそうです。

美喜の父・久彌は、社長時代に事業の社会性や公正な競争に心をくだいた人物で、引退後も東洋文庫を設立したり、清澄庭園六義園を東京市に寄付したりするなど、社会への貢献に気を配りました。こうした社会に対する貢献の思いや使命感は、娘である美喜にもしっかりと根付いていました。

その社会奉仕の考えと、ロンドン滞在中に体験した孤児院での奉仕活動、そしてキリスト教徒としての精神、それらが結実し、美喜は第二次世界大戦後、使命感に突き動かされてある行動に出ます。それが、エリザベス・サンダース・ホームの設立でした。

記念館が立つのは通称「岩崎山」の上。天気のいい日には富士山がきれいに見える。
裏手からは相模湾が望める。歴史ある別荘地だけあり、海と山に囲まれた気持ちのいい立地。

2,000人の子どもたちの母となった澤田美喜

門をくぐりこの長いトンネルを抜けるとエリザベス・サンダース・ホーム。かつてはトンネルの入り口に置き去りにされた赤ちゃんの泣き声が反響して施設に届き、美喜が迎えにいくようなこともあったそう。

第二次世界大戦が終わった直後の日本には、日本人女性と米軍兵との間に生まれ、親にも社会にも受け入れられずに捨てられてしまう混血孤児が数多くいました。そんな不遇な子どもたちを目にした美喜は、自らの使命はこの子らを救うことであると立ち上がります。

敗戦により財閥は解体命令が出され、美喜はすでに「財閥のご令嬢」ではありませんでした。それでも没収されていた大磯の別荘を大変な苦労の末なんとか取り戻し、そこに乳児院を創設します。この設立の資金となった170ドル(当時61,200円)を寄贈したイギリス人女性の名にちなみ、施設はエリザベス・サンダース・ホーム(Elizabeth Saunders Home)と名付けられました。1948年のことでした。

美喜自ら園長に就任し、はじめはふたりの乳児から始まりました。ですが戦後の厳しい時代、親元にいられない子どもは多く、エリザベス・サンダース・ホームには多くの子どもたちが救いを求めて預けられました。子どもの成長にあわせて乳児院から児童養護施設へと体制を変え、さらに施設の子どもたちが落ち着いて生活や勉強に励めるようにと、1953年に学校法人聖ステパノ学園小学校を、1959年には中学校を設立。いずれも美喜が校長となり、子どもたちの成長を見つめ続けました。

施設は財政的には常に厳しい状態にあり、しょせんは財閥のお嬢様のやることという世間の目もありました。それでも美喜は、施設で育った子どもたちの里親や就職先探しにも尽力し、園長・校長として忙しくする傍ら、敷地内にある自宅兼執務室からおびただしい数の手紙を書いて施設や子どもたちへの支援を訴え、1980年に亡くなるまでの間に、実に2,000人もの子どもたちを育てました。

現在もエリザベス・サンダース・ホームは社会福祉法人として活動を続けており、さまざまな理由から親元で暮らすことができない子どもたちに、安心して暮らせる場所を提供しています。美喜は施設の子どもたちから親しみを込めて「ママちゃま」と呼ばれていて、彼女が働き、暮らしていた小さな家は、今も「ママちゃまハウス」として大切に保存されています(一般非公開)。

通称「ママちゃまハウス」。表札には夫の澤田廉三の名を示す「R. Sawada」の文字。
執務室に残る思い出の品。施設の卒業生たちにとってここは実家の母の部屋。母の日には今もここに集まって交流会などが行われているそう。
子どもたちと澤田美喜。私財を投げうち、「ママちゃま」として2,000人を育てた母の笑顔が印象的。(写真提供:エリザベス・サンダース・ホーム)

室内にはたくさんの写真が飾られていて、子どもたちに囲まれた美喜の顔はどれも優しく笑っています。でも、どうやら卒業生たちに言わせるとこれは「普段の顔じゃない」のだとか(笑)。子どもたちを相手に厳しく怒っていた顔が印象に残っているそうで、それはまさに母が実の子どもにだけ向ける顔なのではないでしょうか。美喜が「ママ」と呼ばれていた意味が、そこにもあるように思います。

執務室を見学させていただいていると、窓の外から施設の子どもたちが元気に遊ぶ声が聞こえてきます。きっと子どもたちの前では怒っていた「ママちゃま」も、ここでみんなの声を声援のように聞きながら、大人になる彼らが少しでもよい人生を送れるよう、懸命に手紙を書いたりしていたのだろうとなんだか胸が熱くなりました。

以前は養護施設の子どもたちのための学校だった聖ステパノ学園は、創立40周年を機に公募受け入れも始め、園の考えに共感した家庭の子や、事情により一般の学校に通えなくなったりした子たちも、共に学んでいます。施設の子どもと一般家庭の子どもたちが一緒に学校生活を送ることで、互いを認め合い、助け合うことを自然に学んでいるという今の姿は、実践的インクルーシブ教育と言えるのはないでしょうか。

聖ステパノ学園中学校の校舎。緑に囲まれ海にも近いロケーションは、子どもがのびのび育つ場所としても最適。
学園創立50周年に建設された「海の見えるホール」。大磯町で最大規模のホールで、地域での利用にも公開している。
記念館の2階にある礼拝堂(一般非公開)。施設や学校の子どもたちの礼拝が行われるほか、卒業生が結婚式を挙げたこともある、みんなの心のよりどころのひとつ。

また、2016年には幼保連携型の認定こども園「あおばと」も設立。駅の目の前という抜群の立地で、地元大磯町の待機児童問題の解消に貢献するとともに、地域に対しても以前より開かれた空気になったといいます。今回関係者の方々にお話を伺うなかで、もともと乳児の預かりから始まったエリザベス・サンダース・ホームですから、乳幼児たちを預かって社会に貢献するあおばとについても、「美喜さんもきっと『いい園を作ったね』と言ってくれると思います」というお言葉があったことが、非常に印象的でした。

設立の資金寄贈者の名を冠したエリザベス・サンダース・ホームと、戦争で亡くした三男の洗礼名をつけた聖ステパノ学園。自分の名はどこにもつけず、混血孤児たちの母としての使命を貫いた澤田美喜。だからこそ記念館には美喜の名前がそのままつけられました。「人生は自分の手で、どんな色にも塗りかえられる」という彼女が遺した言葉は、多様性の時代を生きる今の私たちにも重く、熱く響きます。言葉ばかりが先走りがちな「インクルーシブ」な考え、教育というものについて、改めて深く考えさせられる訪問でした。