岩崎四代と仲間たち プロフィール
原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。
漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」
漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。
題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。
海運、鉱山、炭坑事業を
次々と立て直した「ミスター合理化」
日本郵船の三代目社長として26年余りも社長を務めた紳士がいました。近代日本の海運振興に大きな役割を果たした人物、それが近藤廉平です。
明治28(1895)年から大正10(1921)年まで、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などをはさんで、近代日本がダイナミックに発展した時期。日本郵船は欧州航路・北米航路・豪州航路と悲願の三大航路を開設し、世界の海に白地に赤い線二本の「二引(にびき)の旗」をたなびかせたのです。
近藤は嘉永元(1848)年に阿波(現在の徳島県吉野川市)の医者の家に生まれました。15歳で徳島藩中老だった仁尾内膳の書生となり、新居水竹の小心塾、柴秋邨の思斉塾で学びます。しかし、はなたれ小僧のころから血の気が多く、医者になって病人の面倒をみる気などさらさらありません。がむしゃらに剣を学びながら、一方で儒学もしっかり学びました。明治維新直後の明治2(1869)年、近藤は故郷を去り上京、一ツ橋の徳島藩邸に身を寄せました。東京では大学南校(現在の東京大学)に学びます。
明治4(1871)年には、同郷の大蔵省官吏星合常恕(ほしあいつねのり)の書生兼護衛として高知に赴きました。このことが縁で近藤は後日、星合から岩崎彌太郎に預けられることになります。「今後の日本は大事業家を求めている」という星合の説得を受け、官僚志願をやめて、近藤は三菱会社に入社することになります。
大阪・長堀の浪花本店勤務を命ぜられる一方、大阪の岩崎邸内の英語学校に寄宿し、生徒一同を取り締まる舎長に就いたのち、三菱の実務に携わるようになります。近藤の卓抜した能力に着目した彌太郎は「好漢惜しむらくは実務を知らず」とあえて厳しく接し、ビジネスパーソンの心得を一から学ばせました。
近藤は25歳で吉岡鉱山の事務長代理として赴任します。その間、政治の世界への思いが断ちきれず、突然、辞表を提出。彌太郎は慰留して、容易に辞職を許さなかったということもありました。その後、近藤は隣区の鉱主との係争事件に勝利し、三菱の鉱区を2500坪から一挙に8万坪余りにするなど採掘現場の諸問題を解決し、かつ思い切った合理化で、不採算だった鉱山を優良事業に変身させます。
明治11(1878)年、近藤は彌太郎の従妹・豊川従子と結婚。吉岡鉱山を引き揚げ、東京の三菱汽船会社に異動します。当時は西南戦争後の反動不況の中、三菱の財務は逼迫しており、「砂を食い、水を飲む」といわれた徹底した合理化に取り組みます。船舶運航や荷物受渡あるいは支店運営などあらゆる分野の無駄を洗い出して、海運事業の合理化を図りました。まさに「ミスター合理化」と言われる存在でした。
明治15(1882)年には長崎の高島炭坑に山脇正勝事務長の補佐として赴任。損失続きの炭鉱の再建に当たります。後藤象二郎の蓬莱社(ほうらいしゃ)が経営していた頃からの諸問題を信賞必罰(しんしょうひつばつ)主義でばっさばっさと片づけていったのです。