岩崎四代と仲間たち プロフィール
原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。
漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」
漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。
題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。
英国風のジェントルマンだった荘田
生涯を通して「組織の三菱」の基礎をつくる
管事(統括管理者)となって新生三菱を指揮していた荘田は、1889(明治22)年、英国の造船業界などの実情視察のために外遊します。当時の出張は当然ながら船旅でした。短くても半年、1年に及ぶことも多かったそうです。荘田はロンドンに到着し視察を行う中で、ある日、ホテルの部屋で開いた新聞のコラムに目を止めます。
そこには「日本政府、陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内の練兵場を売りに出すも買い手つかず」と書かれていました。それを読んだ荘田は突然閃くものがありました。「そうだ、日本にもロンドンのようなオフィス街を建設すべきだ。宮城(今の皇居のこと)の前に開ける丸の内こそ、その場所だ」。荘田は早速、彌之助に「丸の内、買い取らるべし」との電報を打ちます。後日、彌之助が松方蔵相と合意した額は128万円。当時の東京市の年度予算のなんと3倍に当たる額でした。
こうして次々と新たな施策を講じる中で、荘田の功績と言えるのが、1887(明治20)年に三菱に払い下げられた長崎造船所の改革でした。1895(明治28)年、日本郵船が欧州航路の開設を決定、当時はこのクラスの船舶はもっぱら英国で建造されていましたが、社外取締役の荘田の主張で新造船6隻のうち1隻は長崎造船所に発注されることになりました。新たな船舶である常陸丸(ひたちまる)は6,172t。それまでの最大建造実績は須磨丸の1,592tでしたから、技術的にも大きなチャレンジと言えるものでした。
1897(明治30)年に造船奨励法が公布されたことに伴い、長崎造船所を修繕船から新造船を事業の中核にするという明確な意識を持った久彌社長は、本社の管事として全事業を指揮する立場にあった荘田をあえて長崎造船所長に任命。荘田は長崎に赴き、積極的な設備拡充を図り、貨客船や軍艦など、その後の大型船建造の道を開いていきました。
荘田の近代化はハード面だけではありませんでした。「傭使人扶助法(ようしにんふじょほう)」「職工救護法」など労務管理制度を確立し、所内には工業予備校を設立して自前で職工の養成を図るようにしました。また、造船における厳しい原価計算の概念も導入しました。今では当たり前のことですが、当時の日本企業では製造原価など工業簿記の概念はなかったのです。
荘田は1906(明治39)年まで長崎造船所の所長を務めると同時に、長らく彌太郎、彌之助、久彌の三代の社長を支え、1910(明治43)年に引退しました。豪傑肌の人物が多かった明治の三菱の経営者たちにあって、荘田は類を見ない英国風のジェントルマンでした。生涯を通して、現在の「組織の三菱」と言われるような近代的なシステムをつくり上げることに荘田は貢献したのです。