三菱の歴史

2026.04.30

漫画「岩崎四代と仲間たち」

第14話 豊川良平(前編)

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岩崎四代と仲間たち プロフィール

原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。

漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」

@hoshiihirofumi(X、旧twitter)


漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。


題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。

若い才能を見極める眼力を持った豊川良平

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豊川良平は嘉永5(1852年)、土佐藩の町医者の家に生まれました。従兄の岩崎彌太郎は17歳年上、良平の父と彌太郎の母が兄妹という関係でした。幼い時に両親が亡くなった良平は、岩崎家に引き取られ、彌太郎や彌之助と兄弟同様に育ちます。長じて、藩校の致道館(ちどうかん)で漢学を学んだものの、どうやら腕白のかぎりを尽くしたようです。大阪では彌太郎のいる土佐藩邸に居候し、「英語を勉強した」ということになっているようですが、それで収まったわけではありません。彌太郎が三菱商会を率いて東京に進出すると、良平も意気揚々と上京し、慶應義塾に入ります。
慶應義塾でも土佐弁は丸出し。天衣無縫ぶりを発揮したと言います。当然、成績は悪かったようですが、彌太郎からの信頼は厚いままでした。明治8(1875)年、変則科第3期卒業生の1人として卒業した年、彌太郎の長男の久彌が慶應義塾の幼稚舎に入り、三田の下宿に同居して生活を指導するよう頼まれています。

もともと良平は、小野春彌(おのはるや)と名乗っていましたが、ある時、一念発起して豊川良平と改名しています。苗字の豊は豊臣の豊、川は徳川の川と天下の覇者から。名前の良は張良(ちょうりょう)、平は陳平(ちんぺい)といずれも漢の高祖の功臣から採っています。後年、幕末の志士だった後藤象二郎が豊川の名前の謂われを聞いて、「まるで酒と水と酢と醤油を一緒にしたようなものではないか」とあきれていますが、案外、自由闊達であった良平の本質をついているかもしれません。

良平は慶應義塾を出ると浪人時代を経て、明治11(1878)年に三菱商業学校が設立されると会計監督に就き、事実上の校主を務めます。明治14(1881)年に同校が廃され、夜間学校の明治義塾が設立されると、その塾長に収まります。時にはピンチヒッターであやしげな英語を教えたりしながら、組織や時間に縛られない生活をエンジョイしました。その後、明治17(1885)年に明治義塾が廃校となります。この頃、言論活動にも身を投じており、犬養毅(大隈重信のブレーンでのち首相)や朝吹英二(三菱の支配人を経て、のち三井の最高幹部)と『東海経済新報』を創刊しています。
こうしたフリーな生活を過ごす中で、良平は荘田平五郎(のち三菱の最高幹部)、加藤高明(政界に転じのち首相)、山本達雄(日銀へ移りのち総裁)、吉川泰二郎(のち日本郵船に転じ社長)といった人材に声をかけ、三菱にリクルートしています。良平は自由な、さまざまな人との関わりの中で、若い才能を見極める眼力を養い貯えていたのです。


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