岩崎四代と仲間たち プロフィール
原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。
漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」
漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。
題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。
二×二が四では現状は打開できない。二×二を五にする工夫をしろ
多くの優秀な若手人材を三菱にリクルートした豊川良平でしたが、長らく続いた景気も下降し始め、明治10年代後半になると海運も不況に陥りました。荷為替貸付を行っていた三菱為換店は業務縮小を余儀なくされついに廃業。一方、臼杵(うすき、現大分県臼杵市)藩士達が設立し経営が行き詰まった第百十九国立銀行を、彌太郎は同じ武士の窮状を見過ごし得ずと買収。頭取には旧三菱為換店の元締(もとじめ)だった肥田昭作を充て、不況下でダンピング合戦に突入していた三菱と共同運輸は、政府の斡旋で合併し「日本郵船」となりました。
海運事業を切り離した三菱は明治19(1886)年に「三菱社」を設立、良平は本社事務に任用されました。これまで自由だった良平の生活は一変、やがて肥田の後を襲って第百十九銀行の頭取になります。銀行実務に必ずしも詳しくなかった良平は、やがて日常業務は100%信頼する生え抜きの三村君平に任せることにしました。
明治28(1887)年には、新たな銀行条例のもと、三菱合資会社に銀行部が創設され、良平が部長に就任、第百十九銀行を吸収合併しました。銀行部は、富国強兵・殖産興業の国策にそって展開する三菱合資会社の事業と、表裏の関係にありました。世間の信用は高まり、預金は大幅に伸び、産業銀行的な役割を担いました。それは、良平の広い視野と三村の堅実さがうまく機能した結果だとも言われています。
良平は三菱の幹部になってからも土佐弁丸出しで、しかも話は要領を得ない。しかし、いつのまにかややこしい話をまとめてしまう包容力がありました。そんな良平を、「雄弁をふるうことは出来なくとも座談に長じた人」と評したのは荘田平五郎です。
金融業界では新参者だった良平ですが、その人柄ゆえ、いつしか業界のリーダー的存在となりました。銀行倶楽部委員長、手形交換所委員長などの公職も務めたほか、日本郵船、猪苗代水力など多くの会社・事業に関与し、「二×二が四では現状は打開できない。二×二を五にする工夫をしろ」というのが口癖だったと言います。 「三菱の大蔵大臣兼外務大臣」とも言われた良平の人脈は多彩で、大隈重信や渋沢栄一といった大物にも信頼が厚かった。明治43(1910)年には荘田の後を継いで管事(三菱の最高幹部)になりました。
一方、良平は日頃から自分の子どもたちに「お前たち、三菱に入ろうとは思うなよ。三菱では岩崎を超えられぬ。自力で道を拓け」と言っていたそうです。東京高等工業学校(現東京科学大学)の学生だった順彌は、卒業を待たずに巣鴨に機械工場「白楊社」を興し、父の死の床で同意を取りつけると、遺産すべてを自動車製作に注ぎ込んだと言います。純国産技術で完成させたオートモ号は、東京~大阪間の40時間ノンストップ走行に成功。日本最初の「量産自動車」となり、生産台数は当時としては破格の300台を記録し、大正14年(1925)には上海向けに輸出され、日本最初の「輸出自動車」にもなりました。
ただ、事業としては成功しませんでした。父の遺産を遣い果したとき、「白楊社」は倒産。しかし、先祖の姓を冠したオートモ号は歴史にその名を残しました。空冷直列4気筒、943CC。現物は残っていませんが、図面をもとにトヨタ博物館と国立科学博物館が共同で復元しています。
※順彌は良平の長男です