三菱の歴史

2026.02.26

漫画「岩崎四代と仲間たち」

第12話 荘田平五郎(中編)

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岩崎四代と仲間たち プロフィール

原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。

漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」

@hoshiihirofumi(X、旧twitter)


漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。


題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。

三菱の近代化を進め
海から陸への事業拡大を担う

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明治8年に発表された三菱汽船会社規則

慶應義塾の教師から三菱へ入社した荘田平五郎は本店勤務を命じられ、最初にやった大きな仕事が「三菱汽船会社規則」の策定でした。明治8(1875)年5月に発表されたもので、三菱が政府の海運助成を受けるためにやむを得ず整えた会社規則でしたが、その冒頭の「立社体裁」では、「当商会は…まったく一家の事業にして…ゆえに会社に関する一切のこと…すべて社長の特裁を仰ぐべし」「ゆえに会社の利益は全く社長の一身に帰し会社の損失また社長の一人に帰すべし」とし、社長のワンマン体制であることを宣言しました。
当時、渋沢栄一が株式会社の概念を導入し、「資本を幅広く集め多くの人材が知恵を絞りあってこそ事業の発展がある」と主張したことを荘田は意識していたのかもしれません。「すべては社長が決める。リスクは社長一人が負う」という“彌太郎哲学”を会社規則の第一条と第二条に盛り込んだのは荘田苦心の作と言われています。
もともと三井や住友は財閥の中でも江戸時代から発展し、実際の経営は番頭が取り仕切っていたため、渋沢の提唱する株式会社の概念を受け入れやすかったのかもしれません。一方、三菱はオーナーである岩崎家の当主が自ら強烈な個性でリードする会社でした。社員は主君を立て義を尊ぶ武士の規範を色濃く残しており、その集団のルールを「三菱汽船会社規則」としてまとめた荘田は、理想と現実の整合に工夫をこらす福沢門下生の特徴を示していると言えるでしょう。

明治8年に「三菱汽船会社規則」を策定した荘田は、さらに2年後、経理規程ともいうべき「郵便汽船三菱会社簿記法」をまとめました。これにより三菱は、大福帳(だいふくちょう)経営を脱して、福沢諭吉が明治6年に「帳合之法(ちょうあいのほう)」で提唱した複式簿記を採用し、次第に近代的な経営システムを確立していくのです。
諭吉は近代的なビジネスを日本で広めていくには、会計法を確立する必要があると認識しており、アメリカで出版されていた『ブライヤント=ストラットンの初級学校用ブックキーピング』という西洋簿記の教科書を『帳合之法』と訳して出版しました。当時はアラビア数字がまだ一般的ではなく、日本のビジネス慣習を加味しながら、漢数字用に記載の仕方を変更したと言われています。
こうして初期三菱の経営戦略を担った荘田は、東京海上保険会社、明治生命保険会社の設立に関わり、第百十九国立銀行を傘下に入れ、東京倉庫会社を設立するなど、現在の三菱UFJ銀行や明治安田生命、東京海上日動火災保険といったグループの中核企業の礎をつくることになりました。明治18年の日本郵船設立に際しては、三菱側の代表として創立委員になり理事に就任しました。
彌太郎が死去した後の三菱は弟の彌之助や荘田らを中心に「海」から「陸」へ三菱の発展を見出し、事業を拡大。「三菱社」の名で再発足するとき、荘田は本社支配人として復帰、のち管事(統括管理者)となり新生三菱を指揮していくのです。


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