岩崎四代と仲間たち プロフィール
原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。
漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」
漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。
題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。
近代日本が欧化のために必要とした
建築家ジョサイア・コンドル
鹿鳴館
尊王攘夷を主張していた長州藩の井上馨(かおる)や伊藤博文(ひろぶみ)たちは、トマス・グラバーの支援によって、密かに英国に渡って世界を垣間見たことをきっかけに開国論者となっていました。やがて明治になり、その長州藩の精鋭たちが日本をリードする世が訪れます。なかでも外務卿となった井上が「不平等条約の改正のためには日本が物心ともに欧化する要がある」と考えた原点が、若き日に“長州ファイブ”として過ごした英国での見聞にあったことは容易に想像されます。――まずは上流階級の風俗・習慣が欧化されなければならない。英語を話し外交官など外国の賓客とダンスなどに興じるのだ――。その場所として立派な洋館が必要でした。
井上らが頭に描いた洋館を現実のものとしたのが、工部大学校造家(ぞうか)学科(東京大学工学部建築学科の前身)の教官として招聘された「お雇い外国人」であるジョサイア・コンドルでした。
コンドルは1852年ロンドンで生まれ。サウスケンジントン美術学校とロンドン大学で学び、1873年にウィリアム・バージェス建築事務所に助手として入所します。ゴシック建築の権威であるバージェスのもとで腕を磨いたのです。1876年には、「カントリーハウスの設計」で王立建築学会の若手登竜門ともいうべきソーン賞設計コンペで優勝。その翌年の明治10(1877)年に日本政府の招聘を受け、24歳で来日しました。
来日するやコンドルは教鞭をとるかたわら数多くの洋館の設計に着手、学生は教室での勉強だけでなく、実際の西洋建築の設計・施工に携わることができました。築地訓盲院(くんもういん)、工部大学校の南門と門衛室、開拓使物産販売捌所(さばきどころ)本館……。
コンドルはただ単に西洋建築を設計するのではなく、明治14(1881)年には日本画家の河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)に入門するなど、その土地の文化も採り入れた洋館の設計に努め、アラベスクなど東洋的なイメージも積極的に採り入れていきました。
そして、明治16(1883)年、コンドルが設計を担当した鹿鳴館が日比谷に竣工します。赤い絨毯にきらめくシャンデリア、西洋音楽のもと、紳士淑女の華やかな衣装に交錯するカクテルグラス、甘美な社交ダンスが繰り広げられました。
鹿鳴館はルネッサンス風の2階建てでした。インドなど英国の植民地に多いバルコニー付きの建物で、良く手入れされた庭とセットになっていました。そこでは夜な夜な盛大なパーティーが行われ、のちに『鹿鳴館時代』という言葉を生んだほど一世を風靡したのです。