岩崎四代と仲間たち プロフィール
原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。
漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」
漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。
題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。
お国のために行動した
日本郵船三代目社長、近藤廉平
明治29(1896)年、欧州航路第一船 土佐丸(左)(写真提供:日本郵船歴史博物館)
三菱の主力事業である海運や炭坑の合理化を推進した近藤廉平。しかし、海運を独占する三菱を阻もうと明治16(1883)年には、三菱包囲網が形成され、共同運輸会社が設立されました。三菱は横浜支配人に近藤廉平を据え、神戸支配人の吉川泰次郎とともに鉄壁の砦を築きます。両社は2年以上譲らず、体力を消耗し尽くして、我が国の海運事業は壊滅寸前となります。水面下では無益な競争を回避するために合併交渉が行われました。
明治18(1885)年に政府の仲介で共同運輸と三菱は合併します。新会社となった日本郵船の初代社長には共同運輸の森岡昌純が就きましたが、二代目は三菱の吉川泰次郎。そして、三代目に近藤廉平が46歳で就任することになったのです。
ちなみに合併によって三菱の力は分散されるかにみえましたが、持株比率は三菱のほうが多く、次第に共同運輸の役員は姿を消し、結局、三菱が経営を掌握することになりました。日本郵船三代目社長となった近藤廉平は以降、26年余りも社長を務めることになります。
花柳界ではいつしか「社長」と言えば、近藤のことをいうようになったとか。
所有船舶は6,000t級だけでも18隻を数え、日本郵船の船は常時世界の海を行き来しました。ただし、それらは一朝ことあれば、お国のために徴用される運命にありました。最初の国産大型船、常陸丸(ひたちまる)は、日露戦争において乗組員103人、兵員963人を乗せて日本海で撃沈されました。琵琶の名曲「ああ、常陸丸」で国民の涙を誘い、戦意高揚のための映画や軍歌にもなりました。
日露戦争後は、麒麟麦酒会長、横浜船渠相談役など多数の役員を務め、明治44(1911)年には男爵にも叙せられました。大正7(1918)年には、日本の船主代表としてベルサイユ講和会議に出席することになります。
近藤は根っからの国際人でした。即興でジョークを交えた英語の挨拶ができたのです。ベルサイユ講和会議後のパーティーでは、カタコトのフランス語を試み、一座の人気者にもなりました。しかし、大正10(1921)年、連日の宴席で風邪をこじらせ、あえなくも他界します。享年72歳。趣味豊かで、謡曲、能、書画、骨董などにも造詣が深かったそうです。