岩崎四代と仲間たち プロフィール
原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。
漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」
漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。
題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。
建築界の教育・人材育成に貢献
日本の近代建築に残したコンドルの足跡
ジョサイア・コンドルによって建設された三菱一号館
明治16(1883)年、日比谷に竣工した鹿鳴館では、赤い絨毯にきらめくシャンデリア、西洋音楽のもと、紳士淑女の華やかな衣装に交錯するカクテルグラス、甘美な社交ダンスが繰り広げられました。
鹿鳴館はルネッサンス風の2階建て。インドなど英国の植民地に多いバルコニー付きの建物で、よく手入れされた庭とセットになっていました。そこでは夜な夜な盛大なパーティーが行われ、のちに『鹿鳴館時代』という言葉を生んだほど一世を風靡したのです。
しかし、井上馨の「不平等条約の改正のためには日本が物心ともに欧化する要がある」という思いのとおり、条約改正交渉はうまくいかず、やがて井上が失脚すると、鹿鳴館は一気にその役割を失っていきました。わずか3年余の日本外交のあだ花だったのです。鹿鳴館は明治23(1890)年に宮内省に移管され、のち華族会館になり、やがて保険会社に売却され、昭和15(1940)年に解体されました。
鹿鳴館はあだ花だったかも知れませんが、日本の近代建築に残したコンドルの足跡は不滅でした。明治16(1883)年に教え子の辰野金吾(たつのきんご)が4年間の英国留学から帰ると、コンドルは工部大学校教授の座を譲り工部省に移りました。
明治21(1888)年には退官して設計事務所を開設。岩崎家の邸宅のほか、数多くの「明治の洋館」を設計しました。
明治23(1890)年、政府から陸軍用地の荒涼とした原野だった丸の内の土地払い下げの打診があり、岩崎彌之助は荘田平五郎や末延道成に相談したうえで、約11万坪を約120万円で購入。三菱の経営の根幹を揺るがしかねない大変な金額でした。コンドルは三菱の顧問にもなり、丸の内のオフィス街の建設も手掛けます。その後、丸の内は現在の三菱の不動産事業の出発点となりました。
こうしたなかで、コンドルの真価が発揮されたのは工部大学校での教育・人材育成といっていいでしょう。日本銀行本館や東京駅などを設計した辰野金吾、のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊(かたやまとうくま)、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館『占勝閣(せんしょうかく)』を手掛けた曾禰達蔵(そねたつぞう)など、そうそうたる建築家群を育て上げ、日本の近代化に大きく貢献したのです。