トップインタビュー

2024.03.07

三菱倉庫

読書好きで、思想書から漫画まで幅広いジャンルを読破!
人事畑出身の新社長は「社員との対話から刺激を受けています」

三菱関連企業のトップのお考えやお人柄をお伝えする連載『トップインタビュー』。第11回は三菱倉庫の斉藤 秀親社長に、子ども時代のエピソードや入社の理由、人的資本を軸に据えた経営などについて聞いた。

読書スタイルは「テーマに沿って集中的に読む」。漫画にもくわしく、名だたる作品にはほとんど目を通している。読者におすすめなのは『義母と娘のブルース』と『自虐の詩』。撮影は本社ビル1階にある「まちかどピアノ」の前で。

三菱倉庫 代表取締役社長
斉藤 秀親(さいとう・ひでちか)

1964年、大阪府生まれ。1987年に京都大学法学部を卒業後、三菱倉庫に入社。東京支店越前堀営業所に配属される。大阪支店長、国際輸送事業部長などを歴任した後、執行役員に。その後、常務執行役員、代表取締役 常務執行役員を経て、2023年4月より現職。

――斉藤社長は大阪府のご出身ですね。どんな子ども時代を過ごされたのですか?

斉藤小学校までは堺市で育ちました。振り返ると、堺の公立小学校6年生のときのクラス替えでユニークな友人達と出会ったことが、その後の人生の大きな転機になったように思います。それまではわりとまじめで、ちょっと勉強ができる程度の、ごく普通の小学生でした。しかし、新しい友人達と当時流行していたBCL(Broadcasting Listening)ラジオで海外の短波放送を受信し、その放送局に手紙を送ってベリカード(受信確認証)を集めたり、他にも、クイーンやベイ・シティ・ローラーズといった洋楽を聴いたりし始めて、自分の世界が大きく広がりました。中学受験をしたのも友人達の影響です。当時の友人は長じて一人が医師、一人が公務員になり、今も親しくしています。2020年2月にはベイ・シティ・ローラーズのボーカルだったレスリー・マッコーエンのコンサートツアーの大阪公演に一緒に行って盛り上がりました。レスリーは翌年急死してしまったので、思い出深いコンサートになりました。

今でも小学生時代の友人との時間を大切にしている。

――中学からは奈良県に移られたのですね?

斉藤中学は奈良教育大学附属中学校、高校は東大寺学園高等学校、大学は京都大学に進みました。東大寺学園は当時、東大寺の中にあったんです。校舎からは東大寺の境内の様子がよく見えて、年配の古文の先生が「今日は大仏殿のしび(瓦葺き屋根の大棟の両端につける飾り)がきれいですねぇ」と見入っていたり、ときには奈良公園の鹿が迷い込んできたりと、それはのどかなものでした。制服もなく、進路指導もほとんどなかったように記憶しています。自由な校風は京都大学も一緒でした。私は法学部だったので、法律相談を行う法律相談部や、基礎スキー部、ユニークなところでは民族舞踊部などに入って学生生活を謳歌しました。

三菱倉庫の就職案内を読んでビビッときた

――卒業後に就職先として三菱倉庫を選んだのはどういう理由からですか?

斉藤入社は1987年ですが当時私の周囲では金融機関の人気が高く、法学部の同級生200人のうち3分の1くらいは銀行や信託銀行、生損保に就職しました。しかし、私は皆が行く会社よりも自分に合った会社を選びたいと考えていました。学生時代から何かを企画することが好きだったので、企画ができる会社、可能なら海外で働ける会社、さらに、社員が何万人もいる大企業よりは個々の社員の顔が見えるような会社の方が自分には合っていると思いました。いろいろな会社の就職案内を取り寄せるなかで三菱倉庫に出合ったんです。当時は工場や設備一式を輸送するプラント輸送が脚光を浴びていて、三菱倉庫は海外への輸送をコーディネイトする国際複合一貫輸送を行っていました。「さまざまな角度から最適なルートを考案し、世界のどこにでも輸送可能」「トラブルが発生したときにはすぐに社員がその場に赴きトラブルシューティングにあたる」といった事例を目にした瞬間、「これだ!」と思いました。

――運命の出合いですね。それで三菱倉庫に入社され、どんな新入社員時代を過ごされたのですか? 一番心に残っているできごとをお聞かせください。

斉藤当社では、入社直後は倉庫の現場に配属され、実務を通して現場がどのように運営されているのかを学んでいくのが慣例になっています。
私の最初の配属先は東京の越前堀営業所でしたが、次に異動した大井営業所で半年ほどたった頃だったと思いますが、居酒屋で酒を飲んでいて大切な倉庫のマスターキーを紛失してしまったんです。社会人になってから張りつめていた気持ちが少々緩んでいたのかもしれません。手当たり次第に探し回っても出てこなくて、翌朝、憔悴して上司の所長代理に報告しました。こっぴどく叱られるかと思ったら、「分かった。今後は気をつけろよ」と言われただけでした。この話には後日談があって、後に所長からこんな話を聞かされたんです。所長が所長代理に「お前、ちゃんと叱ったのか?」と尋ねたら、「彼は心底反省しているようだったので、それほど叱ってはいません」と答えたと。でも、実際には被害は甚大だったんです。紛失したのがマスターキーだったので該当する倉庫の鍵をすべて替える必要があり、何十万円という費用に加え、けっこうな労力もかかっていたようです。所長からその話を聞かされたとき、私は所長代理の思慮に感服すると同時に、自分はそういう方の信頼を裏切らないような仕事をしていかなければならないと強く思いました。

逆境でも主体的に生きれば輝いた人生を送れる

――斉藤社長は『臨済録』にある臨済義玄の「随処作主、立処皆真(ずいしょにしゅとなれば、たつところみなしんなり)」を座右の銘としていらっしゃるそうですね。難解な言葉ですが、どんな意味があるのでしょう?

斉藤私は読書が好きで、そのときどきで関心の高いテーマに関する書籍を集中的に読みこむタイプです。この言葉は、中国に赴任していた頃、中国の思想や歴史の本を読むなかで知りました。意味は、「まず己の素晴らしさ(仏性)に目覚め、いかなる場所でも自分が主人公となって主体性を発揮することができれば、そこが己のいるべき場所になる」、つまり、「いきいきと暮らしていくことができる」ということです。ビジネスパーソンに当てはめると、誰もが必ずしも自分のやりたい仕事をさせてもらえるわけではありませんが、どんな部署でも主体的な姿勢を保つことで、そこを自分の「いるべき場所」に変えられる。そんなふうに解釈しています。
興味深いのは、こうした主体的な生き方を推奨する指摘が、洋の東西を問わずに存在していることです。オーストリアの心理学者、ヴィクトール・フランクルは「人が生きる意味は、自分が人生に問うのではなく、人生が自分に問うもの。我々は自分の人生に対して、生きる意味を実現していく必要がある」と提唱しています。フランクルはユダヤ人で、第2次世界大戦時にはナチスの強制収容所で2年半を過ごしました。過酷な環境のなかでも希望を捨てず、周囲をいたわりながら誇りを持って生きている人を、フランクルは「主体性を発揮することで自らの人生の意味を実現した」ととらえていたようです。フランクルの講演録『それでも人生にイエスと言う』と、強制収容所での体験をつづった『夜と霧』は、日本語訳が出版されています。一読をおすすめします。

四川省峨眉山へ、中国人スタッフ達と。交流は今でも続いている。

事業環境が激変するなかでも変革を加速させたい

――御社では2019年に『MLC(Mitsubishi Logistics Corporation)2030ビジョン』を策定し、その実現に向けた2期目の中期経営計画を推進しているところです。進捗をどう評価し、新社長としてどういう経営をされていきたいとお考えですか?

斉藤MLC2030ビジョンは、事業環境や社会環境が激しく変化するなかで、当時の経営陣が強い危機感を持って策定したものと理解しています。とはいえ、グローバルではコロナ禍の混乱を経てサプライチェーンの一層の強靭化が求められるようになり、国内ではトラックドライバーへの時間外労働の規制強化により輸送能力が大きく低下しかねない「物流2024年問題」が待ち受けるなど、その後も大きな環境変化が続いています。そうしたなかでも変革を加速させ、新たな社会課題を解決していくことによってMLC2030ビジョンを実現するのが私の役目です。経営の具体策としては、私自身、人事畑が長かったこともあり、人的資本経営に注力したいと思います。そのうえで、社会課題に対してはDX(デジタルトランスフォーメーション)などを活用した新しい高付加価値サービスを提供することが重要だと考えています。いわゆるイノベーションですね。イノベーションを起こしたり、高付加価値サービスを提供したりするのは人材ですから、そうした人材の養成や、組織文化の醸成が急務となります。

――人的資本経営に注力するということで、斉藤社長は社員とのコミュニケーションを深化させていると伺いました。就任後は積極的にタウンホールミーティング(対話集会)を開催していらっしゃるそうですね。

斉藤ええ。若手や中堅の社員を対象としたタウンホールミーティングを各地で行い、会社の方針を直接伝えると同時に、社員の考えやアイデアなどをヒアリングしています。驚いたのは、社員から本当に多様なアイデアが出てきたことです。なかには将来につながるような事業アイデアもありましたし、いろいろな見方を教えてもらえて、私自身、大変いい刺激になっています。社内で今、新しいことに取り組む「挑戦」と顧客や社会に対して新しい価値を提供する「イノベーション」を推進していますが、イノベーションを生み出すには「縦、横、斜め、双方向」のコミュニケーションが不可欠だと話しています。「縦、横、斜め、双方向」で自由に自分の考えを発信できたり、いろいろな意見交換ができたりする。そういう風通しのいい職場づくりにつなげていきたいですね。

七つ蔵から受け継ぐ「安全な倉庫」のDNA

――社内に変革という新しい風が吹いているのですね。三菱倉庫は三菱グループのなかでも歴史のある会社と伺っています。

斉藤そうですね。三菱為換店の倉庫業務を受け継ぎ、当社の前身の東京倉庫を設立したのが1887年ですから、2024年で創業137年になります。137年の間には戦禍や大きな災害もありましたが、それぞれの時代で求められるニーズに対応する形で今に至っています。例えば、本社のある日本橋ダイヤビルディングの場所には明治の初期に建てられた「七つ蔵」と呼ばれるレンガ造りの平屋の倉庫が並んでいました。当時は、河川を利用した水運がさかんであったため、そばを流れる日本橋川を利用して艀(はしけ)や船で運ばれた貨物を倉庫に荷揚げするには最適の立地でした。しかし、1923年の関東大震災で周辺一帯が壊滅的な状態になり、その後1930年に七つ蔵の跡地に関東大震災規模の地震にも耐えられる非常に堅牢な倉庫(江戸橋倉庫ビル)を再建したんです。江戸橋倉庫ビルは船体をモチーフにしたデザイン性の高い建築で、2007年には東京都選定歴史的建造物にも指定されましたが、老朽化が進み、2014年に当時の趣の残る外壁を残し、中側の建物を新築・高層化する形で今の18階建てのオフィスビルに建て替えました。7階以上は免震構造となっており、浸水に備えて7階と屋上に重要な設備を分散するなど防災対策を強化しています。また、CO2排出量の削減を進めるため全電力を実質再生可能エネルギー由来のものに切り替えるといった環境対応も行っています。

2014年に当時の趣の残る外壁を残して建て替えられた現在の社屋の外観。

――江戸橋倉庫ビルの意匠を残した今のビルも素敵です。最後に、『マンスリーみつびし』の読者へのメッセージをお願いします。

斉藤少し前に三菱グループのトップの方々が参加するセミナーを受講したことがあります。半年ほどのプログラムで、三菱グループへの理解を深める座学や、各社のトップの方々とお話しする会合がありました。それと並行する形で、半年間、5社が1単位となって取り組むグループワークも行われました。その際に強く感じたのが、皆さん大変優秀で、しかも非常に誠実、かつ高い志をお持ちであるということです。忙しい方ばかりなのに時間を割いて東京や大阪など指定の場所に集まり、プレゼンの資料を作り、議論をするなど、本当に真摯に取り組まれている姿に頭が下がりました。そのときのテーマは「三菱グループをさらに発展させるためにはどうしたらいいか」というものだったのですが、皆さんの言動から「会社を、日本を、社会をよくしたい」という熱い思いがひしひしと伝わってきました。ご一緒した方々とは今も交流が続いており、得難い経験をさせていただいたと感謝しています。そうした素晴らしいグループの一員だという誇りを持ち、皆さんと一緒に日本や社会をよくしていけたらと思います。

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