トップインタビュー

2025.11.06

三菱プレシジョン

リーダーの仕事は
最初から正解を求めるのではなく、
自分が決めたことを正解に導いていくことが大事

三菱関連企業のトップのお考えやお人柄をお伝えする連載『トップインタビュー』。第30回は三菱プレシジョン社長の若菜 健司氏に学生時代やキャリアの話、社長としての会社の目標などについて聞いた。

トップインタビュー メインビジュアル 「マンスリーみつびし」

趣味は離島への旅行と車の運転。朝早く目覚めた週末に気分転換に走らせることが多い。食べ物は何でも、とくにみたらし団子が好き。最近読んだ本はメルケル元独首相の『自由』。

三菱プレシジョン代表取締役 取締役社長
若菜 健司(わかな・けんじ)

1966年兵庫県生まれ。1991年東北大学大学院工学研究科修士課程修了。同年三菱電機入社。2018年電子システム事業本部鎌倉製作所副所長、2020年インフォメーションシステム事業推進本部インフォメーションシステム統括事業部長、2022年電子システム事業本部鎌倉製作所長、2025年4月より現職。

――兵庫県のお生まれですが、幼い頃はどんなお子さんでしたか。

若菜私が生まれた西宮市には阪神タイガースと阪急ブレーブスの2球団があり、土地柄野球が盛んで、遊びといえば野球一択でした。ただ、小学校にあがるくらいから工作に夢中になりました。そのうち外で遊ぶよりも、家で手を動かしていろいろなものを作る時間の方が増えていきました。周囲には好きなものに夢中になっている子どもがたくさんいたこともあり、自分も興味のあることや好きなことにより集中するようになりました。
部屋からはいつもハンダや接着剤の匂いが漂っていて、親も心配していましたね(笑)。とにかく身の回りの興味のあるものを想像力を駆使しながら作っていました。たとえば、モーターをイチから作ろうとして、コンセントから火花を出したこともあります。危険極まりないですね。当時は失敗をしながらも、さまざまなモノづくりに挑戦していました。

幼少時代を兵庫で過ごしたときの一枚。

――中学校に入っても工作は続けられたのですか。

若菜国立の小中一貫校に通っていましたが、勉強をした記憶があまりありません。自主活動や学校行事などが目白押しの学校で、勉強する暇がないくらい。部活も技術研究部に入り、好きなものばかりを作っていました。今振り返れば、エンジニアの素養が養われたのかもしれませんが、とにかくモノづくりに夢中になっていました。

――高校時代はいかがですか。

若菜地元の県立高校に進みましたが、のんびりしていましたね。剣道部に入りましたが、麻雀ばかりやっているような学生でした。ただ、将来は理系に強い総合大学に進みたいと考え、東北大学にいきたいと考えるようになりました。

――実際、一浪して東北大学工学部機械工学科に進まれますね。

若菜漠然と航空宇宙分野に興味があって機械工学科を選び、そのなかでも流体科学研究所に所属するかたちで、流体に関わる研究を行いました。当時、世のなかはバブルの時代でしたが、私はまったく無関係で大学もゆったりとした雰囲気でした。部活は自然のなかに身をおきたいと自転車部に入ってサイクリングをしたり、仲間と登山をしたりしていました。その後、大学院にも進みましたが、早く現場のエンジニアになりたいと思っていました。

映画『富士山頂』を見て
三菱電機を志望

――なぜ三菱電機を志望されたのですか。

若菜大学時代、たまたま夜遅く研究室からアパートへ帰ったときに深夜放送を見ていると、富士山レーダーを題材にした『富士山頂』(新田 次郎原作、石原 裕次郎主演)という古い映画が放映されていました。それは伊勢湾台風で大災害が起きたのをきっかけに日本の最高峰である富士山に巨大な気象レーダーを建設する事業をテーマとした映画でした。その映画では短工期のなかで暴風雨に耐えながら、気象庁の職員や三菱電機の社員など、さまざまな関係者が完成に向けて邁進する様子がとても印象に残りました。自分も世のなかに欠かすことのできない仕事をしてみたい、多くの人達と関わりながら仕事をしたい。そういった思いで三菱電機を志望することにしたのです。

大学時代は登山にも夢中になった。

――最初に配属されたのはどちらですか。

若菜鎌倉製作所でミサイルシステムの開発プロジェクトや量産、維持保守を担当する部門に配属されました。
実は入社してから分かったのですが、ミサイルシステムは空力、熱力、自動制御、電磁波、通信をはじめ、あらゆる工学要素の集合体なのです。ですから、技術開発は非常に面白くていつまでも飽きない。とにかく面白い仕事でした。その後、ほぼ鎌倉で過ごすことになります。

――若い頃の印象に残るエピソードはありますか。

若菜入社してすぐに開発プロジェクトに携わることになりました。当時は海外のライセンス導入から純国産へと転換を図ろうとした黎明期で、現場は最高のものを作ろうという意気込みで満ちていました。ところが、システムをまとめあげるシステム統合技術やプロジェクトマネジメントの経験がまだ浅く、ほかのプラクティスを学びながら、自分達なりに手順や手法、プロセスの工夫を重ねるしかない。お手本が少ないなかで、私は三菱重工業の方々とご一緒する機会が多く、彼らの博識ぶりや洗練されたマネジメント手法を目の当たりにすることになりました。まだ自分が若かったこともあり、負けてたまるかと対抗心を抱きながら、教えを乞うていました。目をかけてくださっていたのか、皆さんと仕事をご一緒するうち、「ようやく様になってきたね」と声をかけていただいたときは、とてもうれしかったですね。

難航する開発プロジェクトに関わり、
自分の非力さに逃げ出したくなった

――これは苦しかったと思われるエピソードはありますか。

若菜40代半ばに、2年ほど尼崎にある製作所に赴任し、難航する開発プロジェクトのマネジャーを担当していたときです。当時は単身赴任で自宅にほとんど帰れず、気持ちが休まらなかった思い出があります。最初の仕事は取引先へ着任の挨拶をするかわりに、納期延期のお願いと謝罪から始まりました。文字通り、プロジェクトは大炎上状態。進むたびにどんどん課題が出てきて、延々とデスマーチが続くという感じでした。これまでの自分の知識や経験、人脈がまったく使えず、まさに真っ暗な壺のなかにいるような感覚を味わいました。事の大きさと自分の非力さに正直足がすくんで、逃げ出したくなるくらいでした。
しかし同時に、向き合っている事柄に対してありのままに現実を直視し、そのなかで正しい目的に向かってひたすらまっすぐに歩んでいく。その大切さをこのときに学びました。難しいことに立ち向かっていく勇気、これでいいんだという自信はそこから湧いてくると思います。足を止めていては全員が惑ってしまう。リーダーは、不確実で正解が分からないなかでも前進して物事を決めていく。最初から正解を求めるのではなく、自分が決めたことを正解に導いていくことが大切なのだと思います。

――2020年にはインフォメーションシステム事業推進本部でインフォメーションシステム統括事業部長に就任されます。

若菜官公庁向け社会インフラの情報システムの構築などに携わりました。たとえば、国交省向けの空港で使う管制システムは、止めてしまったら大変なことになります。ミッションクリティカルな領域のシステムでしたので、その緊張感は高いものでした。それまで防衛事業一筋でしたので、社会のDX化が急加速するタイミングでITビジネスを経験したことは、社会や市場、事業に対する見方を新たにすることができて貴重でした。

――2022年に電子システム事業本部鎌倉製作所長に就任されます。

若菜入社したときはまったく想像すらしていませんでした。防衛のみならず宇宙も含めてエンジニアリングを担っていかなければならない責任は重いと正直感じましたが、逆に育ててもらった鎌倉製作所に対して恩返しの気持ちもあり、名誉なことだと思いました。さまざまな大型開発プロジェクトが輻輳していました。装備品や衛星など防衛・宇宙システム分野における開発では技術的に最先端のところを攻めることが多く、ハードルの高さを見誤ったり、勘所を間違えたりしてしまうとプロジェクトが長期にわたって停滞することになり、コストも嵩みます。単に技術を組み合わせて複雑で信頼性の高いシステムを作りあげるだけでなく、構成する技術そのものを獲得して確立しなければならないというケースが少なくありません。複雑で不確実性の高い要素が入った開発プロジェクトを、どうすればうまく計画どおり完遂できるのか。経営の視点からも、そこが大きな課題として感じていました。

移動社会のシステムやインフラを支え、
お客さまのニーズはもとより、社会の変化に敏感になり、事業を進化させたい

――2025年4月には三菱プレシジョンの社長に就任されます。この話があったときはどのように感じられましたか。

若菜正直うれしかったですね。これまで私が育ってきた防衛・宇宙システム分野であり、これからも役に立つことができる。そんな思いでした。プレシジョンの名の通り、人工衛星やロケットに搭載される非常に精密な、信頼性の高い製品をしっかりと開発し作りあげている会社だと思っていました。実際に入社してみると、極めてユニークな人と技術を持っている会社だと実感しています。事業もシミュレーションシステム、航空・宇宙機器、パーキングシステムと各分野で競合する会社はありますが、当社のような事業ポートフォリオを持っている会社はほかにないと思います。

――社長に就任されて、どのような会社にしていきたいとお考えですか。

若菜おもな事業はシミュレーションシステム、航空・宇宙機器、パーキングシステムと、いずれも移動社会を支えるために不可欠なインフラに関わるビジネスです。これからも移動社会のなかで進化していくさまざまなシステムやインフラを支えるために、お客さまのニーズはもとより、社会の変化に敏感になり、事業を進化させていきたい。少子高齢化による働き手不足や自動モビリティの社会実装が進むなかで、シミュレータの価値がますます高まるなど、わたし達のユニークな技術とシステム開発力に世のなかの先端技術を融合させ、社会の原動力である「移動」の進化を常に支えていきたいと考えています。

――最後にメッセージをお願いします。

若菜当社の社員は非常にユニークで、事業に対して人一倍の情熱の強さがあり、多くのポテンシャルを持っています。そうした社員がそれぞれの仕事を通じて、自己実現や成長、うれしさや誇りを感じることができる環境を提供していきたい。その結果として社会に役立つ魅力ある価値を提供できる会社でありたいと思っています。当社のシンボルカラーは藍色がかった青。中国故事に「青は藍より出でて藍より青し」という言葉がありますが、人とともに常に進化し、安心安全で快適なよりよい未来づくりにこれからも貢献していきたいと考えています。

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