岩崎四代と仲間たち プロフィール
原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。
漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」
漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。
題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。
製紙業に進出したウォルシュ兄弟だったが、
経営に苦しみ、岩崎家に資本参加を仰ぐ
大正8年頃の三菱製紙高砂工場
幕末・明治の激動期、日本で活躍した外国人商人はグラバーだけではありません。アメリカ出身の商人である、兄トマス・ウォルシュ、弟ジョン・ウォルシュのウォルシュ兄弟もグラバー同様、成功を収めます。
岩崎彌太郎は長崎時代から仕事を通じて、ウォルシュ兄弟と懇意になっていました。
複数の外国人商人とやり取りしていた彌太郎は「これからは世界を相手にしなければならない」と、若者たちに英語を学ばせており、弟の彌之助もその1人でした。
彌太郎はジョンに彌之助の米国留学を頼み、1872年、彌之助はニューヨーク近郊のコネチカット州にある男子校に留学します。彌之助はウォルシュ家に寄宿しながら、一気にグローバルな視野を広げていきました。
留学している間、彌之助はアメリカでの体験を実況放送的に彌太郎に報告していました。彌太郎も必ず返事を書いたと言います。
たとえば、「只々貴様の学業成就の上、帰国致し候を指折り相待ち居り候……只貴様一身の養生息災に日を送り候ことを祈り候」と弟を思いやったうえで、「このたびは御地ウオロス(=ウォルシュ)氏の妹へ、小さき花細工を相贈り申し候」とホストファミリーへの気遣いも見せています。
一方、ウォルシュ兄弟は、貿易に飽き足らず、明治8年(1875年)、木綿ボロのパルプ工場を神戸に建設します。木綿のボロを製紙原料として欧米に輸出する事業を手がけたのです。ただ、製紙原料となるボロ布をパルプにした上で輸出するという発想はよかったのですが、思ったようにいきませんでした。そのため、最終製品である紙を日本でつくろうと、ウォルシュ兄弟は彌太郎から資金を借りて製紙プラントを導入します。
しかし、輸入製品の不当廉売に苦しみ、経営に行き詰まりを見せ、累積赤字は容易に解消しませんでした。明治21(1888年)年には、借入金を資本金に振り替えるかたちで岩崎家の資本参加を仰ぎます。
ウォルシュ兄弟は次第に事業の軸足を製紙業に移すようになりますが、明治も半ばを過ぎた30年(1897年)、ジョンが急死します。日本に来日してから40年ほどが経っていました。70歳を超した兄のトマスは大いに落胆し、事業への情熱を失い、スイスに移住しました。彌之助の後を継いだ岩崎久彌はかねてからの約束にしたがい、製紙会社におけるウォルシュ兄弟のすべての権利を買い取ります。
ウォルシュ兄弟と岩崎家の付き合いは、彌太郎、彌之助、久彌と岩崎三代にわたるものでした。トマスは「……晩年を平穏に過せるのは日本でのあなた方の友情のゆえ」と、心のこもった手紙を久彌に残しています。
ウォルシュ兄弟の神戸製紙工場は大きく成長し、今日の三菱製紙として存続することになり、ジョンの墓は今も神戸市立外国人墓地で供養されています。