三菱の歴史

2026.01.29

漫画「岩崎四代と仲間たち」

第11話 荘田平五郎(前編)

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岩崎四代と仲間たち プロフィール

原作:成田 誠一(なりた・せいいち)
『マンスリーみつびし』冊子時代に連載していた歴史エッセイ『青あるいは朱、白あるいは玄。』著者。本連載はこのコラムの漫画化。

漫画原作:星井 博文(ほしい・ひろぶみ)
漫画原作者、漫画家。『まんがでわかる 伝え方が9割』(ダイヤモンド社)など経済から歴史ものまで著書多数。「なんでもマンガにしちゃう男」

@hoshiihirofumi(X、旧twitter)


漫画作画:上川 敦志(かみかわ・あつし)
漫画家。小学館「少年サンデー」などで活躍。同社の学習まんがシリーズでも著書多数。『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ』(小学館)など。実は女性。


題字:藤田 紅子(ふじた・こうし)
書道家。毎日書道会審査会員、南不乗発会、現日会副会長、高知現日会長、安芸全国書展審査会員。安芸全国高校生書展審査員。

慶應義塾の教師から転身
自分の才能を試したいと三菱に入る

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三菱を退社するに際し郷土の文化の向上を願って地元臼杵市に図書館建設を発案。
私費を投じ1918年に寄贈した大正時代の建物が、平成15年4月1日に臼杵図書館付属の「こども図書館」として再生しました

荘田平五郎は、明治から大正期にかけて活躍した三菱グループの重鎮です。三菱造船所支配人を経て、三菱合資会社理事長、日本郵船社長・会長、東京海上火災保険会社会長など三菱の要職を歴任した大番頭といわれています。日本勧業銀行や満州鉄道などの創立にも携わり、三菱商業学校校長、三菱工業予備学校所長として三菱社員の教育にもあたっています。

荘田平五郎は弘化4年(1847年)に豊後・臼杵藩(現在の大分県臼杵市)に臼杵藩士の儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれました。
藩校で抜群の秀才だった荘田は慶応3年(1867年)、19歳のときに選抜されて江戸の英学塾、青地信敬塾に入門。その後、慶応4年(1868年)にはじめて福沢諭吉を訪ねています。しかし、藩命により薩摩藩の開成所に派遣され、明治2年(1869年)に薩摩藩洋学局講師となりますが、翌年、23歳で再び上京。念願の慶應義塾に入塾します。

福沢諭吉が蘭学塾を創始したのは安政5年(1858年)、江戸築地鉄砲洲で開いたのが慶應義塾の起源となります。諭吉はこれから蘭語よりも英語の時代になると確信し、英学塾に転向したのが文久3年(1863)。慶應義塾と命名したのは慶応4年(1868)でした。
諭吉は荘田の卓抜した識見と才能を早々に見抜き、明治5年(1872年)には慶應義塾の教員となり、荘田はやがて義塾分校設立のために大阪、京都に派遣されます。そこで「学問と算盤の両刀使い」ぶりを十分に発揮し、諭吉の期待に応えました。そのため、荘田の実業界入りを熱心に説く人もいたと言います。

荘田は、明治7年(1874年)、東京・三田に戻り、再び慶應義塾で教鞭を執るようになりました。そのころ、たとえば、CheckやInvoiceなどの単語は、誰でも分かるような的確な訳語がまだありませんでした。慶應義塾では紋付羽織に角帯をしめ、諄々と説くように講義する荘田でしたが、学生たちにいかにそれらの概念を理解させるか、しばしば教壇で考え込んだと言います。大阪では実務にもセンスのあることを示した荘田でしたが、要するに根は真面目だったのです。

そんな荘田が明治8年(1875年)2月、嘱望されて三菱に入ることになりました。その頃、岩崎彌太郎は、社員に洋服を禁じ、あえて和服・角帯・前垂れ姿で、客を心から接待する心をもつよう奨励していました。諭吉はそんな彌太郎を買うようになる一方、彌太郎は諭吉の『実業立国論』を読んでその考えに感心したと言います。
荘田の三菱入社を巡っては岩崎彌太郎の従弟で慶應の後輩でもあった豊川良平がリクルートしたといわれていますが、有能な人材を実業界に供給するのが慶應義塾の役目だと心得ていた諭吉が、彌太郎を卓抜した実業家として一目も二目も置いていたことが根底にあったのでしょう。荘田自身も、自分の才能を実業界で試したい気持ちが強かったのです。


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