三菱関連企業のトップのお考えやお人柄をお伝えする連載『トップインタビュー』。第34回はアストモスエネルギー社長の佐藤 利宣氏に学生時代やキャリアの話、社長としての会社の目標などについて聞いた。
趣味はゴルフと飲み会。食事は和洋中何でもいけるし、お酒も何でもOK。ただし、自宅ではほぼ飲まない。国内出張の際、地域の方々と地場の食材を堪能しながら、歴史話やお国自慢を拝聴するのが楽しい。
アストモスエネルギー代表取締役社長
佐藤 利宣(さとう・としのぶ)
1967年東京都生まれ。1991年法政大学経営学部卒。同年4月三菱商事入社。2012年三菱商事石油関西支店長、2015年三菱商事石油原料部長、2017年三菱商事エネルギー副社長、2020年三菱商事海外石油部長、2021年韓国三菱商事代表理事社長、2024年三菱商事地球環境エネルギーグループ石油ソリューション本部長、2025年アストモスエネルギー代表取締役副社長、2026年より現職。
――2026年1月より社長に就任されました。現在のお気持ちは?
佐藤やはり社長の責は重いですね。現在、本体で約340名、グループ会社を含めると約2,400名の社員がおり、特約店と呼ばれるビジネスパートナーは国内で約400社にも上ります。海外調達、国内物流、そしてリテール販売に至るまで、多岐にわたって多数の方々と関わるなかで、当社が果たす役割は非常に重要であると改めて痛感しています。三菱商事も大きな会社ですが、そのなかで自分が果たしてきた役割と現在の代表責任者としての役割は、かなり重みが違うなと実感しています。
――お生まれは東京ですね。
佐藤父親(日本専売公社、現JT勤務)の転勤に伴い、生まれてから何回も引っ越しを繰り返していました。また、ほとんどが社宅暮らしだったので、ここが自分の実家だという感覚もあまりありません。その度に、友達をつくるのがけっこう大変でした。子どもながらにどうやって新しい環境に順応するのかを自然と考えていたのかもしれません。そのためか、今でも新しい環境に比較的早く順応するのは得意ですし、自分の一つの能力になっています。気丈な父が亡くなる前に「あの頃は、すまなかったな」とポツリと言ったことが今でも記憶に残っています。高校入学後すぐに転校となり、まったくレベルの違う高校に編入することになったことを、親として申し訳なく思っていたのかもしれません。結果的に、高校時代の大半は東京都内の某公立高校に通っていましたが、ある意味、自由で楽しすぎる高校生活を満喫することができました。大学受験では苦労しましたが。
――その後、法政大学経営学部に進まれます。
佐藤高校時代にエンジョイしすぎた反動もあって、大学に入ってからはもっと勉強して自分の能力を高めたいと考え、ESS(英語研究会)に入りました。実は長い間、このことは社内外でも伏せていたのですが、今回カミングアウトさせてもらいます。三菱商事の社内には英語が堪能な先輩や同期も山ほどいて、何となく恥ずかしかったのでしょうね。
ESSではディスカッション活動に専念していました。全国規模での大学間の交流も盛んで、大学に捉われない沢山の仲間に出会えるとてもよい機会となりました。英語力はさておき、そこで学んだ物事の考え方、論理的な話し方、他者とのコミュニケーション能力などは、今の自分にも大いに生かされていると感じています。
300番目に入社した男だと自負
「失うものは何もない。最後尾から前を目指す。」
――商社を志望されたのはなぜですか。
佐藤英語をやっていたこともあり、国際ビジネスへのあこがれはありました。今思えば、青臭い話ですが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み終えた後に、自分も明治維新の頃の若い人達のように海外に飛び出し、日本国のために働きたいと心を震わせたことを覚えています。
就職時の1991年はまさにバブルの絶頂期。ただ、自分にとって就職活動は決して楽なものではなく、三菱商事も最終面接まで辿り着いたものの、会社からの返答期限の1週間が経っても連絡はありませんでした。縁がなかったと諦めて10月1日には別の会社の内定式に参加しました。その翌日に三菱商事の人事部から「もう就職はお決まりでしょうが、ぜひ当社に来ていただきたい」と連絡があり、最後のすべり込みで入社することになりました。その場で飛び上がるほど嬉しかった半面、同期入社の総合職約300名のなかではまさに最後尾からのスタート。「失うものは何もない。とにかく前を向いて走り続けよう」そんな気持ちで三菱商事ビルの門をくぐった記憶があります。
――三菱商事に入社されて最初の配属はどちらでしたか。
佐藤当時の燃料グループのなかにあった炭素製品部に配属されました。エネルギーのなかでもニッチな商品である電極用のニードルコークスを担当することになりました。今から思うと1~2年目の比較的若い頃からお客さまとの海外出張に同行したり、交渉の場にも参加させてもらうことができました。入社以来約5年間を同部署で過ごしましたが、そこでは商社パーソンの基礎となることをたくさん学ばせてもらいました。以降、エネルギー畑一筋、石油関連商品をほぼすべて担当することになりました。
――若い頃はどんなことを学びましたか。
佐藤お客さまとどう付き合うのか、どう向き合うべきなのかを徹底的に学びました。ビジネスを介して、いかにお客さまと深い信頼関係を築くことができるかがすべてにおいて重要だということです。仕事を丁寧に進めるというのは当然ですが、たとえば、会食ひとつをとってみても、お客さまの好みは何か、どんな雰囲気なら話しやすいのか、お土産を選ぶときも単身赴任なのか、ご家族がいるのか。こうしたことを真剣に考えることが相手への思いやりとなります。また時には自分自身のことをさらけ出すことによって、最終的に「この人となら一緒に仕事をやってみたい」という信頼関係を築くことができると思います。入社6年目で初めての海外駐在(韓国)を経験しましたが、海外においても互いの信頼関係が最も重要であるということを認識することができました。
三菱商事の名刺が通用しないなかで
肩書に捉われない信頼関係をどう築いていくのか
――2012年以降、子会社の三菱商事石油関西支店長を皮切りに、キャリアとしては子会社と本社を往復されていますね。
佐藤振り返って見ると、事業投資先への出向、とくにエネルギービジネスのなかでリテール分野に関われたことは、自身のキャリア形成のうえでは非常に有益であったと考えています。三菱商事におけるエネルギー事業は上流、中流といったBtoB分野での仕事がほとんどを占めるのが実態です。BtoCに近い分野では、世界が異なります。リテール事業においては、特約店様から消費者に至るまでさまざまなお客さまと関わることになりますが、三菱商事の名刺は簡単には通用しません。そうしたなかで、肩書に捉われない信頼関係をどう築くのか、まさに人間性を前面に押し出したお付き合いを通じて、ビジネスを構築していくということを学ぶ貴重な経験となりました。
――2020年には海外石油部長に就任されますね。
佐藤2018年にエネルギー部門のシンガポール関係会社において大きな損失事案が発生し、その事後処理に対応するために本体に戻ることになりました。結果的には、自分が最後の海外石油部長を務めることになったわけですが、長年にわたり続けてきた事業投資先を閉じ、一緒に働いてきた仲間達を解雇せざるを得なかったこと、また、残された業務をどのように整理し、維持継続するかを社内のさまざまな関係部局と相談したことなどを思い出すと非常に厳しく辛い仕事でした。自分自身も石油化学用の原料であるナフサトレーディングに長く携わっていたこともありますが、あらためてトレーディング事業におけるリスクマネージメントの重要さを学びました。二度と起こしてはならない事案であり、後世にも教訓として語り継いでいかなければならないと思っています。
――2021年には韓国三菱商事の社長に就任されます。
佐藤アジア通貨危機を挟んだ1996~2001年の間に韓国に駐在していたので、二度目の駐在となり非常に親近感もありました。ほぼ第二の故郷感覚ですね。最初の駐在時は最年少の課長代理の肩書だったのですが、二度目はまさかの社長で戻ってきたので、当時一緒に働いていた仲間達からはたいへん驚かれました。
赴任したときには、韓国の成長ぶりに目を見張りました。韓国の現代自動車は、もともと三菱自工がエンジン技術を提供した会社でしたが、そのHYUNDAIが今では世界のトップクラスの会社へと成長しています。また、世界有数の製鉄会社であるPOSCOの立ち上げの際にも三菱商事は多大な貢献を行いました。他にも半導体、造船、ケミカルなど日本を超えるような生産能力を持っており、時代の変化を痛感しました。
日本にとってLPガスは必要不可欠であり、
エネルギー安全保障の観点からも有用
3月17日に行われた20周年の式典で挨拶する佐藤社長
――これまでエネルギー畑を歩いてきて、思い出に残る仕事は何でしょうか。
佐藤エネルギービジネスは、人々の生活や産業界を支える社会的意義の高い重要な仕事です。3.11東日本大震災の際に、東北や関東エリアでは多くのサプライチェーンが突如として分断されましたが、そのとき、我々に与えられた最大の任務は「いかにしてライフラインを復活させるか。産業のエネルギー源を断ち切らせないようにするか」ということでした。当時、自分は産業燃料部のチームリーダーを務めていましたが、チームのメンバーとともに数か月間にもわたって不眠不休に近い形で仕事に取り組んだことを今でも昨日のことのように覚えています。まさにこれはエネルギーという仕事を通じて自分に与えられた使命であり、これからもエネルギーパーソンとしてのスピリッツを持ち続けていきたいと感じた仕事でした。
――2026年にアストモスエネルギーの社長に就任されました。
佐藤アストモスエネルギーは、2006年に旧三菱液化瓦斯と三菱商事のLPG部門、そして出光興産が出資する出光ガスアンドライフの3社が事業統合して生まれたLPガス輸入・元売企業です。これまでの20年間の道のりは決して順風満帆なものではなく、国内の需要が漸減を続ける状況下、逆に厳しく険しい道のりを歩んできました。それが故に、統合当初から、改革や改善を通じて自社の機能を高め、新たなビジネス領域にも果敢に挑戦してきたという歴史がある会社です。おかげさまで今年は設立20周年を迎えましたが、近年は好業績にも恵まれ、また合併当時は別々の会社の社員の集まりだったものも、今では7割ほどの社員がアストモスとして採用した世代に移り変わってきました。ようやくこのオレンジ色のアストモスカラーが一つの色として紡ぎ合わさってきたと思っています。
――これからどのような会社にしていきたいとお考えですか。
佐藤実はここ近年、LPガスへの見方が少しずつ変わってきています。これまでは、田舎のエネルギーといった印象もあったかと思うのですが、日本という国においては地域特性上(都市ガス配管が届かないエリアは国土の94%に及ぶ)、LPガスは将来的にも必要不可欠であるということ。また、エネルギーの安全保障の観点からも中東エリアに依存しない海外からの供給ソースは大変貴重であること。さらに、現在日本に輸入されているLPガスの大半は、LNG(液化天然ガス)の生産に伴って産出された随伴ガスと呼ばれるものであり、環境価値も他の化石燃料に比べれば相対的に優れたものであることなどが挙げられます。もはやLPガスは石油製品のひとつというよりは、LNGと同様のガス体エネルギーのひとつと言っても過言ではないと思います。
そして、自然災害が多発する日本においては、分散型エネルギーであるLPガスは復旧対応も容易なことから、エネルギーの「最後の砦」として国からも再注目を浴びており、第七次エネルギー基本計画においても、その旨が明確に記載されることになりました。
我が国にとって必要不可欠な、緊急時にも強く、環境にもやさしいエネルギーであるLPガスの付加価値を、アストモスエネルギーの事業を通じて広く社会に浸透させていくことが、自分に課せられた大きなミッションであると考えています。
――最後にメッセージをお願いします。
佐藤今年は20周年という節目の年を迎え、この3月にはこれまでサポートしてきていただいた多くのお客さまをお招きして感謝の集いを開催しました。我々は次の時代を見据えて、新たな一歩を踏み出すことになります。社名のアストモスは造語で「仲間と共に明日を灯す。」という意味が込められています。三菱グループの一員として、すべてのステークホルダーの皆さんと共に将来にわたって持続的な成長ができる会社にしていきたいと思います。