沿革

三菱の起源は1870(明治3)年。土佐藩出身の岩崎彌太郎が海運事業を興したことに始まります。以降、四代の岩崎家の社長が三菱グループの基礎を築きました。第二次世界大戦終結後の1946(昭和21)年に三菱本社は解体され、各社はそれぞれに独立した企業となり、今日ある姿へと発展しました。
ここではグループが共有する140年余の歩みを紹介いたします。

1830〜1880年大転換期を力に変えた不屈の企業人

三菱グループの礎を築いた男。岩崎彌太郎。

三菱グループの礎を築いた男

歴史を繙くと、社会が大きく転換し発展するとき、必ず新しいビジネスが勃興するものです。幕末・維新もそのような時代でした。まさに岩崎彌太郎は、日本が近代に向かう時代を代表する起業家の一人です。

幕末期、彌太郎は土佐藩の役人として長崎に赴任、樟脳や鰹節など土佐の特産品を売り、軍艦や武器を購入していました。その後大阪に移ると貿易と海運に辣腕をふるい、藩の活動に大きな役割を果しました。

しかし明治維新政府は廃藩置県にともない、藩営事業禁止の方針を打ち出します。
1870(明治3)年、土佐藩の有力者である後藤象二郎、板垣退助たちは、私商社として九十九商会を設立し藩の海運事業を譲渡します。事業に最も精通している彌太郎に経営・監督を一任、これが「三菱」の誕生となりました。

翌年、廃藩置県により土佐藩は消滅し、九十九商会の経営を彌太郎が引き受けることとなりました。73(明治6)年には社名を三菱商会と改称、自ら「社主」に就任し、ここに名実ともに実業家・岩崎彌太郎が誕生したのでした。

元郷士としての希望と挫折

土佐出身のジョン万次郎が帰国したのは1851(嘉永4)年、そのわずか2年後にはペリーが黒船を率いて浦賀に来航、わが国に開国を迫ります。

35(天保5)年生まれの岩崎彌太郎は、そんな時代の変わり目に多感な時期をすごしました。

元郷士の貧しい家に生まれた少年が、世に認められる道は学問しかなく、彌太郎は伯母の嫁ぎ先である土佐一の儒学者、岡本寧浦に師事し、懸命に学びました。

土佐の小さな村から江戸に出ることなど夢のような話でしたが、54(安政元)年江戸詰めに決まった儒学者の奥宮慥斎の従者としてそのチャンスがめぐってきました。

彌太郎は、当時の最高学府、昌平黌の教授、安積艮斎の見山塾に入り、周囲も驚くほど勉学に打ち込みます。しかし折悪しく郷里で父親がトラブルで重傷を負ったという知らせが届き、一年余で江戸を後にすることになりました。

このトラブルに巻き込まれた彌太郎は投獄されてしまいます。その後出獄がかない、土佐藩開明派の指導者吉田東洋の少林塾に入塾、後藤象二郎らの知遇を得ることとなります。

「奉公」の精神こそ三菱の基本精神

幾多の変遷があった後、彌太郎は1867(慶応3)年、後藤象二郎により藩の商務組織開成館の長崎商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事しました。坂本龍馬が脱藩の罪を許され、海援隊が土佐藩の外郭機関となると、隊の金策等の支援も行うこととなります。時代の舞台は、次第に長崎から、大阪、神戸、横浜へと移っていきました。69(明治2)年大阪へ異動となり、翌年には大阪藩邸の責任者にまでかけ上ります。70(明治3)年九十九商会が設立されました。藩船三隻を借り受け、その後三川商会と名乗り、73(明治6)年に彌太郎が社主となり三菱商会と改称します。翌年本拠を東京に移し三菱蒸汽船会社と称し、75(明治8)年明治政府の海運助成策を機に、社名を郵便汽船三菱会社としました。

74(明治7)年の台湾出兵や、77(明治10)年の西南戦争で政府軍の輸送を一手に引き受けた三菱は政府の信頼を得、財政的基盤を盤石にしていきます。所有船は61隻となり、当時の日本の汽船総トン数の73%を占めるほどになりました。

彌太郎の先見性が時代を拓いた

彌太郎の先見性が時代を拓いた

彌太郎の強烈なリーダーシップで、三菱は急速に成長します。それは海運事業だけにとどまらず、1873(明治6)年には岡山県の吉岡鉱山を手に入れます。
その後、吉岡は近代的な技術の導入により良質な鉱脈を掘り当てると、日本三大銅山のひとつに数えられるようになりました。

さらに、持てる経営資源をさまざまな事業に注ぎ込み、海運業に付随した業務から金融や倉庫業などが生まれることになりました。

81(明治14)年、かつてグラバーが運営に係わり後藤象二郎に払い下げられた高島炭坑も買い取ります。これは武家の商法で経営に失敗した象二郎を助けようとする福沢諭吉からの要請とともに、弟の彌之助の詳細な調査に基づく勧めがあったからでした。高島炭坑は最新技術の導入により、後年、三菱の収益源となっていきます。

また徳川幕府によって建設された長崎造船所を、84(明治17)年にひとまず政府から借り受けると、彌太郎の没後、買収にも成功、その後の積極的な設備投資により造船三菱の最大拠点となっていきました。

1880〜1896年リーダーシップを支えた武士道と冷徹な眼力

彌太郎の行動力を支えた「智将」。岩崎彌之助。

彌太郎の行動力を支えた「智将」

「不肖ながら社長の任を継ぎ、諸君とともに、わが海運事業の拡張に邁進する所存である」
「ことに海運事業に関しては亡き兄の宿志を継ぎ、不撓不屈の精神でこれに向かう」
数万人が会葬したといわれる彌太郎の葬儀の5日後、彌之助は兄の遺志を継ぐ決意を全社員に宣言します。

彌之助と彌太郎は16歳違いで、彌之助はこの兄を父のように頼りにしていました。1869(明治2)年、兄が長崎から大阪に移ると、兄を頼って自らも大阪に出、漢学を学ぶ傍ら兄の勧めで、英語を学びます。72(明治5)年にはウォルシュ兄弟の助力を得て、コネティカット州エリントンの全寮制の学校に入学します。父の急死で1年5カ月という短い期間ではありましたが、この留学経験は、生涯、彌之助にとって大きな財産となりました。

大阪に戻った彌之助は兄を補佐するために三菱商会に入社、海運業界のライバルとしのぎを削る戦いのなかでビジネスの実務経験を身につけていきます。

特に西南の役では長崎で軍事輸送を取り仕切り、名実ともに彌太郎を支える存在となっていったのです。

多角化路線に向けた道を拓く

彌太郎時代の三菱の事業拡大のなかで、彌之助が大きな役割を果したもののひとつに、1881(明治14)年の高島炭坑の買い取りがあります。高島炭坑は後藤象二郎が所有していましたが、経営は火の車でした。政治家としての後藤の能力を惜しんだ福沢諭吉が、彌太郎に買い取りを依頼します。彌之助も高島炭坑の推定埋蔵量や事業の可能性を総合的に評価し彌太郎を説得、ついに買い取りに同意させました。その後、彌之助が取得に関与する炭鉱は筑豊、唐津へとひろがっていきます。

江戸時代の丸の内

丸の内買い取りと一大ビジネス街への夢

江戸時代、丸の内は大名の藩邸が建ち並び、また明治維新以降は官有地となり司法省など政府機関や宮城警護の兵舎のほかは、練兵場となっていました。

陸軍は麻布にレンガ造りの兵営建築を計画していました。その費用を捻出するため、丸の内の土地約13万5千坪を売却して資金を調達しようと、政府は民間に払い下げることを決定、有力財閥間で入札を実施しましたが、入札価格は政府の希望額を大きく下回りました。

万策尽きた松方正義蔵相は、彌之助に丸の内の買い取りを懇請します。彌之助は熟考の末、「お国へのご奉公の意味を以てお引き受けしましょう」と受諾します。この決断の裏には、若き日に見たマンハッタンのイメージに加え、彌之助のブレーンでたまたま英国滞在中だった荘田平五郎や末延道成からのアドバイスもありました。彌之助の頭のなかに、わが国も近代国家としてロンドンのオフィス街のようなエリアが必要になるとの考えが膨らんでいたのです。

兄の遺言を8年で果たした 義に生きた武士道の人

1893(明治26)年の商法会社編の施行を機に彌之助は久彌と折半出資の形にして三菱合資会社を組織、久彌を社長にすると自ら「監務」に就任し、若い社長の後見人としての役割に徹していきます。兄の彌太郎の遺言「久彌を嫡統とし」を8年で果たしたのでした。彌之助42歳、久彌は28歳でした。

社長を退いて3年、彌之助に日銀総裁就任の要請が舞い込みました。彌太郎の盟友にして彌之助を支え、当時第三代日銀総裁となっていた川田小一郎が急死したため、首相松方正義は彌之助に白羽の矢をたてたのでした。

固辞した彌之助は度重なる説得を受け、96(明治29)年、第四代日銀総裁に就任、在任中金本位体制を採用するとともに、外国為替銀行の横浜正金銀行(後の東京銀行、現三菱UFJ銀行)との協調体制を確立しました。

彌之助は恩師重野安繹の修史事業を支援するために集めた図書を母体とした静嘉堂文庫を創設し、明治の西欧文化偏重のなかで軽視されがちであった東洋固有の文化財の収集を行いました。その収集は小彌太に引き継がれていきます。

1890〜1916年近代的なマネジメントへの第一歩を踏み出す

近代的ビジネス感覚とダンディズム。岩崎久彌。

近代的ビジネス感覚とダンディズム

久彌は1886(明治19)年、アメリカに渡りペンシルヴァニア大学ウォートン・スクールで学びました。この時期、アメリカでは石油、石炭、鉄鋼などの分野でロックフェラーやカーネギーなどの大資本家たちが台頭しはじめていました。そのビジネスの大きなうねりのようなものを、久彌は現地アメリカでじかに肌で感じ取っていったのでした。

このペンシルヴァニアへの留学は、その後の久彌の人生にも大きく影響を与えたようで、現在、東京都が管理する旧岩崎邸庭園の洋館はジョサイア・コンドルの設計による久彌の自宅でしたが、石造りの設計だったものを木造に変更、テラスなどにはアメリカ東部の香りを漂わせています。

5年間の留学から帰国した久彌は、副社長として三菱社に入り合資会社への改組を機に、94(明治27)年、28歳で三菱合資会社の社長に就任しました。

旧岩崎邸庭園

フェアコンペティションを貫いた高潔のビジネスマン

1895(明治28)年、日本郵船は欧州航路開設のため6000トン級の貨客船6隻を建造することとなりました。当時このクラスの船舶を建造できるのはイギリスだけでしたが、このうちの1隻が長崎造船所に発注されました。それまで船舶の修理や1600トンクラスの造船しか経験のなかった長崎造船所は、荘田平五郎陣頭指揮の下この大プロジェクトを成し遂げたのでした。この記念すべき船は、常陸丸と命名されました。

このプロジェクトにより、大型船舶造船の実績ができた長崎造船所は、のちにアメリカ航路に就航した天洋丸など1万3000トン級の豪華客船を建造、さらには大型戦艦の建造も任されるようになっていきました。

父彌太郎や叔父彌之助の生き方から、久彌は、「三菱あるのは国あってのこと」という考えを学びました。また、留学時代に、アメリカの成功者・知識人・宗教家との交流のなかで、富める者の社会的責任も強く意識していました。その結果、久彌は「人のため」「社会のため」貢献するという考えを確固として持っていたのです。

ワンマン経営体質から近代的マネジメントへ

1908(明治41)年、久彌は今日の事業部制とも言えるシステムを導入します。これは各部門にコスト意識と責任を持たせることで、さらなる事業の拡大を目指してのことでした。そこで三菱合資会社は銀行部、造船部、庶務部、鉱山部、営業部、炭坑部、地所部など、各部に権限を委譲するかたちをとっていきました。これこそ、アメリカで近代的なマネジメントを学んだ久彌ならではの発想でした。

若い頃から人の話を聞くことに長けていた久彌は、周囲の人間の意見を聞き、大きな方向性だけを示すと、各論は信頼できる部下に任せました。これが後に、「組織の三菱」と言われる強い組織の礎をつくり上げていったのです。

「所期奉公」の精神は一線を引いた後も

1916(大正5)年、第一次大戦の好景気に沸くなか、久彌は従弟である小彌太に社長の座を譲ります。久彌50歳のまだ働き盛りでした。

こういう時期だからこそ安心して後継者に後を委ねられると考えた久彌は、まさに無私恬淡の人物だったのです。それ以降、久彌は三菱合資会社の事業に口をはさむことはありませんでした。

そんな久彌は社長を退いた後、「岩崎家の事業」としていた小岩井農場などの農牧事業に携わるかたわら、社会への貢献に努めました。そのひとつが、現在世界屈指の東洋学研究センターとなっている東洋文庫の設立です。その母体となったものは、元ロンドンタイムズ北京特派員で中華民国総統府顧問をつとめたモリソンが収集した文献2万4千冊、地図1000枚に及ぶいわゆるモリソン文庫で、社長を辞した翌年、これを一括購入し、24(大正13)年には財団法人東洋文庫を設立しました。

また、かつて彌太郎が買い上げた清澄庭園や六義園などを市民のために東京市(当時)に寄贈し、今日でも都民の憩いの場所として親しまれています。

1910〜1946年三菱マンの体に流れる欧米流フェアの精神

GHQに「NO」と言った日本人。岩崎小彌太。

GHQに「NO」と言った日本人

第二次世界大戦の終戦から2カ月ほどたった1945(昭和20)年10月20日、GHQは「主要金融機関又は企業の解体又は生産に関する総司令部覚書」を発しました。

それまでもGHQは、その占領政策の主眼のひとつに「財閥解体」をあげていましたが、当時の内閣は「これまでの日本経済の繁栄は、ひとえに財閥系企業の努力に負うところが多く、その解体は日本国民の生活に利益をもたらすとは考えられない」と、「解体」には消極的でした。しかし、GHQのこの「覚書」が出ると、財閥の解体は、もはや抗しがたい既定の事実となりました。

GHQは「日本を戦争に駆りたてた元凶は軍と財閥」とし、「全体主義的な独占力をもった経済勢力の粉砕」を図るため、三菱をはじめ三井、住友、安田といった財閥本社の自発的解体を迫ったのです。

GHQの意向は絶対で各財閥はこれを受け入れましたが、小彌太は少しも怯むことなく「三菱は国家社会に対していまだかつて不信の行為をしたことはなく、なんら恥ずべき事はない。三菱本社の株式は、すでに公開され、株主の数は1万3000人に及んでいる」と、三菱解体の要求に胸を張って「NO」と唱えました。

敗戦後の占領下で、GHQに正面切って反論ができる人物が他にいたでしょうか。しかし、時代の大波を押し返すことはできず、日本政府が解体命令を出したと解釈し、小彌太も受け入れざるをえなくなりました。

ケンブリッジ流 国際感覚と日本流武士道の精神

22歳から28歳まで英国に暮らし、ケンブリッジに学んだ小彌太は、当時の日本の経営者のなかでは、屈指の国際派でした。イギリスの一般学生と同じようにラテン語や古典を学んで受験し入学、正規の単位を取得し卒業しました。

そんな国際派の小彌太が、太平洋戦争の開戦から2日後、三菱系各社の最高幹部を招集して行ったスピーチが残っています。

「これまで政治外交上の問題に自分なりに意見を言ってきたが、ことここに至っては、国家の方針は明らかである。一致協力してお国のために努力しよう」という内容のものでした。

国あっての三菱という考えに、ぶれはありませんでした。しかし、ここで注目したいのは、スピーチの後半部分です。

「目前の情勢の変化ばかりに惑わされず、つねに百年の大計を立ててことに当たって欲しい」、さらに「これまで三菱は、さまざまな分野で英米のパートナーと手を携えてビジネスを行ってきた。今日、不幸にして敵味方に分かれているが、彼らの身辺と権益を守ることは日本人の情義であり責務である。またいつの日にか世界の平和と福祉のために共に手を携えていくこともあろう」

国民が開戦に興奮しているなか、しかも厳しい言論統制の最中、ここまで現状を的確に判断し、さらには「百年の計」を見据えビジョンを打ち上げた国際感覚は、今の時代でも驚かされます。

こうした小彌太の考えにより、戦争中にもかかわらず、三菱グループに関連した英米企業の権益は守り続けられることになりました。

一攫千金を夢見ることなかれ!「処事光明」こそが大切

小彌太は1916(大正5)年の社長就任後、事業部門の独立採算制をさらに進め、各事業部門ごとに分離・独立させ、三菱合資会社が持株会社として傘下事業を統括する体制を採りました。三菱商事も18(大正7)年に分離・独立しましたが、折しも不況の波をかぶり、翌年下期には損失を計上することになってしまいました。

20(大正9)年5月3日、小彌太は三菱商事の幹部たちを本社に招集、社員たちは不業績を責められるに違いないと、覚悟を決めていました。ところが小彌太は「商業の経済的機能は何か」、さらに「生産者と消費者に対する商事会社の責任を果たすよう」、その信念のほどを語りました。

「我々は大いに競争すべきである。さらにその競争はフェアに争うべきだ。そして競争は《量の競争》ではなく、《質の競争》にしたい。ただし、ここで注意しなければならないのは、競争にのめり込むばかりに、成績を挙げようと手段を選ばぬようになると、我が社創立の伝統に照らして遺憾である。一攫千金を狙うような暴利の獲得を目的とする投機に走ってはならない」と結びました。

この折りの訓示をもととして、34(昭和9)年、三菱商事会長だった三宅川百太郎が諸橋轍次博士の助言を得て「三綱領」を制定し、グループ全体の理念として今日に至っています。

近代的オフィスビル「三菱第一号館」

丸の内が日本一のビジネスセンターに

明治維新後、新政府の軍隊の駐屯地だった丸の内地区に、初めて近代的オフィスビル「三菱第一号館」が竣工したのは1894(明治27)年のことでした。

その後、馬場先通りに3階建の赤レンガ造りのビルが建ち並び、人々はここを「一丁倫敦(ロンドン)」と呼びました。

1914(大正3)年に東京駅が開業すると、ビジネスセンターは北に広がり、ビルの規模が大きく工期の早いアメリカ式オフィスビルが建築されます。

23(大正12)年2月20日に完成した旧丸ビルは、商店街があり誰でも自由に出入りができた点で画期的なビルでした。堅牢な造りで出来上ってまもない同年9月1日の関東大震災でも、旧丸ビルの被害は軽微ですみました。

旧丸ビルは99(平成11)年に取り壊され2002(平成14)年には新しい丸ビルが完成し、丸の内のランドマークとして、多くの人々に親しまれています。

1950〜1970年敗戦からの復興 新生「三菱」へのあゆみ

財閥解体にも三菱の経営理念はDNAとして残った

敗戦とともに、GHQは財閥解体の方針を打ち出し、ここに四代70年に及んだ岩崎家による経営は幕を下ろすことになりました。1946(昭和21)年9月、三菱本社は解散、三菱各社はそれぞれ独立した会社として再出発します。

GHQの指令は、解体だけにとどまらず、関係会社の社長や幹部社員の追放、さらには三菱の商号や商標の使用も厳しく制限するものでした。各社は厳しい経営を強いられましたが、共通の理念のもと、ある時は連携を取りながら事業活動を行いました。52(昭和27)年には各社の社長懇談会を発足させ、54(昭和29)年には「三菱金曜会」と改めます。

そのようななか、52(昭和27)年にサンフランシスコ平和条約が発効、財閥商号・商標使用禁止の政令が廃止され商号を変更していた各社は、次々と三菱の社名に復していきます。

54(昭和29)年には、三菱商事が大合同を実現しました。

富士山頂レーダーと日本の気象予報

1959(昭和34)年9月26日、紀伊半島に上陸した台風15号(伊勢湾台風)は、東海地方を中心に近畿から東海の広い範囲にわたり、死者行方不明者5098人、負傷者3万9千人という、明治以来最大の被害をもたらしました。

そこで気象庁は、日本本土に近づく恐れのある台風の位置を早期に探知するため、富士山測候所にレーダー棟の増設を決断、この工事を三菱電機一社が受注します。富士山頂での作業と資材の運搬は困難を極めましたが、64(昭和39)年8月15日、800キロ先までの観測ができるレーダーがついに設置されました。この富士山レーダーは、99(平成11)年まで35年の長きにわたって、日本の気象観測の大きな要として、その役割を担い続けました。そして、気象レーダー運用の電気技術史に残すべき顕著な事例として、2000(平成12)年3月、米国電気電子学会からIEEEマイルストーンに認定されました。

東京オリンピックと三菱グループの再生

1964(昭和39)年には、それまで分割されていた三菱造船、新三菱重工業、三菱日本重工業の3社が三菱重工業として合併しました。さらに同年9月には、三菱グループとしての広報活動を通して社会との相互理解を深め社会の発展に貢献するために、三菱広報委員会が設立されました。

「スリーダイヤ」と「三菱」の持つイメージの向上と、一般大衆から愛され親しまれる製品をPRするため、各企業はもとよりグループとしての活動を国内外に発信していくことになります。

この年の10月10日、戦後日本の悲願とも言われた東京オリンピックが開催され、日本の復興を世界に強く印象付けました。

新たな時代の到来 変革への胎動

さらに、1960年代中頃から三菱各社は、相互の連係を強めていくことになります。

また、一方では外国資本との提携も行われ、56(昭和31)年にシェルとの共同出資により三菱油化(現三菱ケミカル)が、62(昭和37)年には三菱レイノルズアルミニウム(現三菱アルミニウム)、三菱プレシジョンが設立されました。

昭和30年代の高度成長は、国民生活に密着した消費関連分野に飛躍的成長をもたらし、三菱各社も消費材分野で大きな進歩をとげました。新たな事業として、67(昭和42)年ダイヤモンドクレジット(現三菱UFJニコス)が設立されカード事業が展開されました。

1970年〜さらなる未来に向かって

三菱創業100年 グループとしての新世紀

三菱創業100年 グループとしての新世紀

1970(昭和45)年三菱グループは、創業100年を迎えました。その前年には記念事業として三菱財団を設立し、学術研究や社会福祉に対する助成を行い現在に至っています。70(昭和45)年には総合シンクタンクとして三菱総合研究所が設立されました。

終戦直後の財閥解体、商号禁止という占領政策の下で、困難な時代を乗り越え創業100年を迎えられたのは、組織としては解体されたものの、各企業の経営の根幹につねに三菱の哲学として「所期奉公」「処事光明」「立業貿易」が脈々と受け継がれてきたからにほかなりません。

100年を迎えたグループの活動のひとつとして、70(昭和45)年の大阪万博に「三菱未来館」を出展しました。以来、沖縄国際海洋博、神戸博ポートピア・81、つくば科学博、さらには大阪花博、愛・地球博と、グループとして取り組んできています。

各社が独自の活動をしながらも、経営理念を共有するグループとして、より豊かな社会の実現に貢献すべく取り組んでいこうという表れと言えるでしょう。

バブル景気にも浮かれなかった気質は三菱のDNA

1980年代後半から始まったバブル景気は、過剰な投機熱を社会全体に生みました。三菱グループにもバブルの波は襲ってきました。しかし三菱には創業以来の経営哲学がありました。

第一次世界大戦が終わった翌年の1919(大正8)年には、戦後復興需要などから景気は上昇し、白熱的な投機ブームがおとずれました。時の小彌太社長は投機的な商法に対し厳しく批判をし、「浮華放漫」の弊害を捨て「質実堅忍」の風を振興してほしいとの通達を出しています。

バブル景気の時期にも、この三菱のDNAともいうべき教えが幸いして、過剰な融資合戦に参入することがなかったため、バブル崩壊後の不良債権が少なくて済んだと言われています。

「世界で最もインタラクションが活発な街」丸の内へ

丸の内は、日本有数のビジネスセンターとして発展してきました。丸の内に大手町、有楽町を加えた地域を、日本の顔として開かれた多様性のある街へと発展させるため、再開発の取り組みが三菱地所を中心に行われています。

1995(平成7)年の丸ビル建て替え公表以来、東京駅前周辺を重点的に再開発が進められました。2002(平成14)年丸の内ビル、03(平成15)年日本工業倶楽部会館・三菱UFJ信託銀行本店ビル、04(平成16)年丸の内MY PLAZAと丸の内オアゾ、05(平成17)年東京ビルが次々に建て替えられ、07(平成19)年には新丸の内ビルとザ・ペニンシュラ東京が竣工し、活気と賑わいを創出しました。2008(平成20)年からはさらなる街の「拡がり」「深まり」を目指し、エリア全体の機能更新が図られています。

「丸の内パークビル・三菱一号館」は1894(明治27)年に竣工、その後解体された「三菱第一号館」が同じ場所に復元され、美術館として2010(平成22)年4月に開館。2012(平成24)年1月には「丸の内永楽ビル」が、10月には「大手町フィナンシャルシティ ノースタワー・サウスタワー」が竣工しました。また、2016(平成28)年に竣工した「大手町フィナンシャルシティ グランキューブ」の隣には日本旅館の誘致を行い、2017(平成29)年に竣工した「大手町パークビルディング」では大手町初の「住」機能としてサービスアパートメントを導入するなど、グローバルビジネス拠点のさらなる機能強化に取り組んでいます。

現在は、2027年の完成を目指して高さ約390mの日本一高いビルを含む「東京駅前常盤橋プロジェクト」を推進しており、東京の新たなシンボルとなる街づくりを進めています。

従来のものづくりの枠を超えた挑戦

2015(平成27)年11月、国産初のジェット旅客機となるMitsubishi Regional Jet(MRJ)の初飛行が実施されました。三菱重工が取り組んでいるMRJ事業は、航空宇宙事業で培った技術を駆使した新事業への挑戦であり、完成機ビジネスは今後国内産業の新たな柱になると期待されています。

MRJは、国内産業の中長期的な成長期待を背負うとともに、一企業のものづくりの枠を超えた取り組みとなっています。またMRJは地域と地域をつないで新しいネットワークを形成し、地方活性化に向けた重要な交通手段となることが期待されています。

三菱グループの新たなる航海は「宇宙」という海原に向かう

2008年(平成20年)3月、国際宇宙ステーションに日本初の有人実験施設「きぼう」日本実験棟の取付が開始され、同年8月から最初の実験が始まったことにより、本格的な宇宙ステーション利用の時代に入りました。

その国際宇宙ステーションに物資を補給するのが、日本で開発した宇宙ステーション補給機「こうのとり」(HTV)です。

「こうのとり」は、国際宇宙ステーションに食糧や実験装置など最大6トンの補給物資を届ける無人輸送機で、宇宙航空研究開発機構のもとで、三菱重工業、三菱電機などが中心となって今も製造を継続しています。

人間が出入りするドッキングポートでは通過できない大きな貨物および船外用貨物を国際宇宙ステーションへ輸送できるのは大型ハッチや補給キャリア非与圧部を有する「こうのとり」のみであり、日本の技術力が高く評価されています。

海運事業から出発した三菱グループの三綱領のひとつ「立業貿易」の向かう先は「宇宙」という海原になるのかもしれません。